6月20日基礎科昼間部(祐原)
<座ったままじゃなくて、動け、とくに藤竜也が>
<「わかりました。私がオペしましょう」って。医者同士でわざわざ手術を「オペ」って言わないでしょうが>
私はTVの前で叫んだ。
ふだん、TVドラマや映画、芝居に「この状況でこの言い方はないわな」とか「そんなに思ってる事をペラペラ話すのはおかしい」「みんながみんなずっと棒立ちでしゃべり続けるわけない」などとツッコミながら観ている人は多いと思う。ほとんどの人がそうだと思う。
他ならぬ私もそういう細かい事が気になるタチで、子供の時分からドラマや映画にツッコンでいた。
逆に、感銘を受けるシーンも、例えば「喫茶店で愛人をなだめながら、生クリームのビンに砂糖を何杯も入れてそれを舐める銀行のエリート支店長(津川雅彦)」(伊丹十三・あげまん)といった物語の本旨とは無関係の部分で、「立身出世した後も、戦中、戦後の貧しい時代を忘れられない男のクセが表れている」などとよく感嘆したものだ。
日常的に接している知人、友人にこういう事を興味を持って議論してくれる人は少ないし、とくに最近のTVドラマではあまり考慮されていないように思う(いや、私が気づいていないだけなのか)。
無いんなら、自分で書いてやろう。そういう議論をしてくれる同輩を見つけよう。また、シナリオ作家は何をどう考えて創作しているのか、を見定めよう。という尊大かつ「井の中の蛙」的な動機から講座に参加した。
実際に講座を受けてみて、これまでに身に染みて身にわかったのは、シナリオの要諦は一にも二にも十にも「プロット」であり、その本質は「登場人物の感情のうねり」ということだ。先述した私のツッコミや感嘆のごときは枝葉末節、まずもって、作家は物語の骨格づくりに全力を傾注しなければならない。考えてみれば当たり前のことだが、諸先生方に口を酸っぱくして言われて、ようやくそれを「念頭に」置けるようになってきたところである。
毎週、他の受講生の方々が書いてくるプロットは実に多彩で、昨今ならではのご近所トラブルをリアルに描いたもの、はかない恋愛ファンタジー、近・現代史を裏面から照射したような骨太なものまで、読むたびに刺激的であると共に、自身の想像力の貧困を思い知らされる日々だが、何とか食らいついて行きたい。
と、このブログも本質(その日の授業)からずれてしまっている…すみません。