2010.6.5

ただいるだけの人物は出さない(研修科夜間部)

こんにちは。
このたび、研修科・夜間の受講ブログ員になりました加藤文男です。
初めてのブログになります。よろしくお願いします。

 

私は2日(水)の小川智子先生の授業についてリポートします。

 

講評された作品は2本。毎回ほぼ20人近い受講生が参加しているという事情もあり、一つの作品にかける時間が1時間程度になることもあります。

 

提出者にとって講評時間が長いということは、それだけ多く色々な意見を言ってもらえるわけでラッキーだったと思います……。

 

私の印象では、皆さん、本当に熱心に他の人の作品を読まれ、率直かつ誠実に自分の考えや疑問、意見などを披露していました。

 

中には、まるで自分の作品であるかのように真剣に、○○すべきだ、○○がない、○○のほうがいい、と直言する場面もありましたが、聞いている側もまた真剣に真正面から受け止めようとしており、親しさの中にも凛とした緊張感が漂う、教室の雰囲気でした。

 

今回、小川先生の発言や受講生とのやり取りの中で感じた点、ポイントだと思った点についてまとめたいと思います。

 

先生が強調されていたのは「登場人物の掘り下げ」の大切さでした。

 

当たり前の話ですが、人は皆、過去を背負って生きており、今の生活や行動原理もその結果だと思います。

 

そうした過去の設定や事情の一つ一つが今、ドラマを見ている観客に、わかるように書かれなければならない――。今風の言葉を使うと、キャラクターの「見える化」ということでしょうか。

 

私も過去に、物語を進行させるためだけの、のっぺらぼうな人物になっていると指摘されました、非常に耳が痛いです……。

 

自分の描きたいテーマ、ストーリーに沿って、人物を登場させ、行動させるのですが、そのとおり行動している人物が、よくわからない、人間としてのリアリティー、魅力、面白みがない状態だと、観客はその人物に対する興味をなくし、それ以上ドラマの中に入っていくことができなくなる、受講生同士の会話の中で「主人公がわからなかった。ドラマに入っていけなかった」という話が出るゆえんでしょう。

 

主人公が作者の操り人形になっている……私も過去に何度も指摘されました。きっと、ここを乗り越えないと、シナリオは書けないということなのだと思います。自省します。

 

そのほか私が印象的だったのは、小川先生の「たとえ、1シーンか2シーンしか出てこない人物にも、意味づけが必要」という言葉。

 

「ただいるだけの人物、たとえば、主人公の話を聞くためだけの人物は出してはいけない。出す以上は、何か役割を与えること」

 

私の理解では、意味づけとは、主人公が抱えている問題や事情に何か影響を与える存在でなければならないということ。

 

たとえ、1シーンか2シーンしか出てこなくても、主人公に何か気づかせるなり、その心理と行動に変化をもたらすのでなければならないということでしょうか。

 

登場人物の気持ちや置かれた状況、事情を手っ取り早く説明するため、単なる友人などを出すことを、私もやってきているので、恥ずかしい限りですが、それがいかによくないか、ドラマの質を損ねるかということを知らされました。気をつけたいと思います。

 

長くなりましたが、以上でリポートを終ります。
正直、最初はブログを書くのをためらっておりましたが、自分の中で改めてポイントを整理できたので、書かせてもらってよかったと思います。

 

次回は、自分の提出作品の講評についてリポートできれば、それもそれで面白いかと思います。

 

最後に読んでくださった皆さんに感謝します。ありがとうございました。ではまた教室で。