6月13日基礎科昼間部(相木)
僕は小心者である。
のっけから、どうでもいい情報の開示であるが、広い心でご容赦願いたい。
今回の授業も依然、鈴木智先生による講座生が提出したプロット(1時間モノ)の講評だ。
講座生の皆さんは、毎回、新しいアイディアを先生に向かってぶつけており、多岐に渡るジャンルの企画に、先生はそれぞれ的確なアドバイスを投げ返していく。
自身のキャパを越える他者の発想に触れ、プロの指導を仰ぐフィールドに立ち会う瞬間こそ、シナリオ講座ならではの妙味といえよう。
貴重な経験値は、決して無駄にはなるまい。
僕も前回に引き続き、先生のアドバイスに基づいて改定を重ねたプロットをしつこく提出。
今回こそ、ある程度ストーリーとしてまとまったのではないか、とちょっぴり自信を持っていたのだが…、結果、ダメ出しの嵐となった。
僕のプロットを今回初めて読んだ受講生の方々からも、ドキリとする意見が飛び交う。
どうしてこうなるんだ!という先生の苛立ちと落胆がしみじみと伝わってき、心なしか先生の背後に半透明の不動明王が見え、実に怖かった。
それもそのはず、主人公の描き込みが足りず、先生の説くところのメインストーリーとサブストーリーのメカニズムが不鮮明で起用していなかったのだ。
要は、作劇術の基本がなっていないのである。
あまつさえ自信をもっていた数分前の自分に、延髄斬りをかましたいぐらいである。
なぜ、こんなことになったのか?
私生活では稀代の小心者である僕は、常に最悪の事態を想定して生活している。
例えば先日。
渋谷の映画館でレイトショーを観た際、鑑賞後、あろうことか、ひとつの鍵束にまとめていた自転車と自宅の鍵がポケットからなくなっていた。
緊急事態である。
とはいえ、冷静に考えれば、自転車は映画館前に駐車しており、そこから劇場内の範囲で落としたことは自明の理。
簡単に見つかるだろうとタカをくくっていたのだが…、ザッと探してもどこにもない。
映画館のスタッフに、鍵の落し物がないか尋ねてみると、困惑気味に首を振るのみ。
荷物の中身をひっくり返し、眼を皿のようにして丹念に道筋を辿るも一向に見つからない。
その間、映画館のスタッフは、最近行ったイタリア料理店の話で盛り上がっている。
「どうせこちとらイタリア料理といえば、サイゼリアしか縁がねーよ!っていうか、ちょっとは探すの手伝えや!」と心の中で毒づきながら劇場内をイモリの如く這って捜索するも、鍵は出てこない。
見つけたのは、埃に塗れた50円玉のみであった。
これは一体どうしたことか。四次元に鍵束が吸い込まれたとでもいうのか?
本格的にヤバイ!自転車はまだしも、このままでは家に入れない!
…と、普通に考えれば絶望的状況なのだが、ここで小心者である僕の性格が功を奏すこととなる。
そう、こんなこともあろうかと、僕はバイト先のロッカーに自宅と自転車の合鍵を備えていたのだ!
談笑する映画館のスタッフを軽く睨みながら、急いで市ヶ谷のバイト先に向かい、合鍵を回収。
そして再び自転車を取りに渋谷の映画館に舞い戻り、一件落着となるはずが…、
ここからがさらなるアクシデントの始まりであった。
映画館は渋谷の円山町の中にあり、知っての通りラブホテル街である当地は、時間が時間だけにカップルだらけ。
まさに現代日本のデカダンス。
つい最近、『恋の罪』(11)をBlu-rayで観直した経緯もあり、街が妙に艶めかしく写った次第である。
ここで神楽坂恵に出くわしたら、誘惑をはねつけることが僕に出来るだろうか?と、ありえないシチュエーションを思い描いていた僕の脳裡にその時、「キャラを造るには、一重に人間観察すべし」という先人の格言が突如ひらめいた。
という訳で、カップルをしばし観察することに。
これが意外に面白く、「あれは不倫だな」「あれは幼馴染だな」「あれは倦怠期だな」「あれは逃走犯だな」等々、勝手な妄想を膨らませながらブラブラ歩いていると、案の定…、低い男の濁声が夜空に木霊した。
「なに見てんだよ、テメー!」
因縁をつけてきた男は、『北斗の拳』に出てくるザ・雑魚キャラ風のモヒカン(便宜上、ヒデブ男と命名)。連れの女の子は、全盛期の有馬稲子とトイ・プードルを足して二で割ったような面容であった(悔しいが、ちょっと可愛かった)。
「なにジロジロ見てんだよ、文句あんのか、コラ」とヒデブ男。
「は?口のきき方に気を付けたまえ。ケンカは相手を見て売ることだ」と紳士的に言い返し、通信教育で習得したジークンドーでお灸を据えてもよかったのだが、ここで拳を痛めてキーボードが打てなくなったら困る。
よって、「すみません!」と直角に体を折り、光速の動きで逃走した。
命拾いしたな、ヒデブ男よ。
そんなこんなで、自転車で自宅に帰り、波乱の一日を終えたのであった。
後半、関係のない武勇伝に話がそれたが、この鍵紛失事件が示す“備えあれば憂いなし”の心がけがプロット執筆に欠けていたと言わざるを得ない。
プロットを書いているのか小説を書いているのか、霧中をさまようような錯覚に襲われ、「シナリオを書いた方が早いのに!」ともどかしくなることがある。
しかしその見切り発車が、結局、シナリオ執筆上の危機を招く事実が、プロットの改定作業で身に染みて分かってきた(ように思う)。
まだまだ出口は見えませんが、がんばります。
ちなみに賢明なシナリオ修験者ならお気付きのことと思うが、本稿は回想シーンの使い方の悪い見本である。
回想シーンの使い方には、お互い重々気を付けましょう。