2008年9月8日(月曜日)
山田耕大といいます。
横谷昌宏さんから引き継ぎました。
横谷さんとは『クロスファイア』(2000年封切/原作 宮部みゆき/監督
金子修介)の脚本を一緒に書いた。というか、横谷さんが最初に書いたシナリオが東宝の御前会議を通り、その後、当時東宝映画調整部のプロデューサーだった瀬田一彦さんが僕に声をかけてくれて、参加することになったのだ。その前に瀬田さんとは『鉄鼠の檻』(原作
京極夏彦/監督
河毛俊作)の企画を進めていて、プロットから始まって二年近くかけてシナリオを作ったのに、御前会議で「この企画はいくら金があって足りない」という理由で落とされた。瀬田さんはきっとその時の雪辱のつもりで僕に声をかけてくれたのだと思う。横谷さんが書いたシナリオを土台にして、僕が構成を洗い直してシナリオを書き直し、それを踏み台にして監督が一から手を入れた。またその後、東宝の撮影所に連日のように集まっては、朝から晩までこれでもかと直しの打ち合わせをした。あんなにしつこくシナリオの打ち合わせをした記憶は後にも先にもない。
何を誤解されているのか、それとも念の入った皮肉なのか、たまに僕のことを“売れっ子”だと言う人がいるが、とんでもない話だ。自分の書いた映画やテレビドラマが放映される時に、書いた時期はぜんぜん離れているのに、何故か封切り日や放映日がすごく近かったりして、あらぬ誤解を受けているのだ。
言っちゃなんだが、売れっ子になったことなど一度もないし、これからもないと思う。時々プロデューサーなんかから電話が掛かってきて、「シナリオの発注か」と喜ぶと、「なんか企画ありませんか」と聞かれて、ずっこけたりすることもしょっちゅうだ。が、企画を探すという行為が、死ぬまで治らない癖になっている僕は、ほいほいと企画を探しに精を出す。おめでたいのだ。人から仕事が来ないので、自分から仕事を作る。だから、僕はシナリオを書くよりもずっと多くの時間を企画探しに費やし、時には頼まれもしないのに企画書を書く。
“売れっ子”のライターの中には、仕事を断ったことを得々と人に喋る人間がいるが、あれはムカつく。男に口説かれて断ったのを、人に自慢する女のようだ。
「わたし、そんな安い女じゃないわよ」というわけだ。
僕は仕事は基本的には断らない。昔惚れた女の子が、「わたし、病気持ち以外なら誰とでも寝るよ」と言っていたが、僕も見習って、呆れるほどひどい話以外は仕事を断らないことにしている。たまたま運悪くスケジュールが合わず断らなければいけない時は、文字通り涙を飲む。「誰とでも寝る」彼女は、淫乱とは程遠い品のある潔さのようなものを漂わせていた。
「わたし、そんな安い女じゃないわよ」と“高い”ものに常に物欲しげな女の、ゴージャスな下品さとはわけが違う。それは関係ないか。
そんなだが、久々に人から映画のシナリオの依頼が来た。声をかけてくれたのはかつて一緒に何本もVシネマをやって来た加藤和夫という東映ビデオのプロデューサーだ。若者の話である。僕の息子と同じ年と高校生が主人公だ。もちろん、喜んでお受けした。既に加藤さんと監督の小松荘一郎さんとで作ったプロットがあり、何度か打ち合わせしながらそれを僕が直し、さらにハコを作り、そのハコの三稿目を今朝送ったら、加藤さんからシナリオの書きに入ってほしいと電話を頂いた。が、そのシナリオの書きに入る前に、去年からずっとやって今第三稿まで書き上げた映画のシナリオの直しがあった。こっちは僕の企画で、中年の男と女のささやかな恋愛話だ。まだ製作が決まってなくて、もしかしたら無駄書きに終わるかもしれないが、自分がプロデューサーをやっていた時に何本か助監督をやってくれた原正弘さんの映画第二作目の企画で、絶対に実現したいと思っている。
その他にも、僕が企画した映画の企画書が二本、テレビドラマが三本、シナリオになるのを夢見て眠っている。「誰か早く起こしてくれい!」と願いながら、夜はシナリオ講座のガイダンスへと向かった。シナリオ作家協会の会長でシナリオ講座委員長の加藤正人さんと、講座希望者たちに“シナリオライターとはどういうものか”とか“シナリオ講座とはどんなものか”という話をした。
いつもなら、加藤さんと一緒に飲むのに、加藤さんは明日胆のうの手術の検査があって水以外に何も飲んではいけないということになっていて、先に帰っていかれた。
外に出ると雨だった。作協のビルの入り口に、傘を忘れた6、7人のガイダンス生たちが、雨脚を見ながら立っていた。オチャを飲もうという話になって、僕も付き合うことになり、小降りになったところで少し歩いた先のカフェに入った。参加したのは5人だ。幸い、酒も置いてあったので、僕と他に二人がビールを飲んだ。何故だろうか、ライター志望の人たちと話すのはとても楽しい。話が弾んで、あっという間にビールが三杯空になった。もっと飲みたかったが、お開きにした。直しが残っていたのだ。
千代田線の駅の入り口で彼等と別れた頃には、雨はすっかり上がっていた。
2008年9月9日(火曜日)
原正弘監督とやろうとしている中年の男と女のささやかな恋愛話のシナリオの第四稿目の直しをした。去年の今頃だと思うが、原さんと原作をどう映画にしようかと話し合っていたのだが、原作には二人が出会った時の具体的なエピソードはなく、映画にする時には絶対に必要だと僕が主張して、我々でそれを作ることにした。
が、出会いのシチュエーションは出来たが、そこから二人が寝るまでに至る流れに、何かが不足してしてギクシャクしていた。シナリオというものは、二度、三度、四度と精読していくうちに、二度目に気づかなかったことを四度目に気づいたり、直して切ったことでまた新たなことに気づいたりで、いくらでも直しが湧いてくる。どんな映画にするのか基本的には合意していても、監督、ライター、プロデューサーそれぞれがシナリオに対してぜんぜん別の意見を抱いたりもするから、ちょっとややこしい。ましてや、三者のやりたいことがバラバラだとシナリオ作りはただ悲惨の一言に尽きる。
ともあれ、この不足を監督が言い出したのは最近のことで、僕も読む度に、良いような悪いようなモヤモヤ感があったのが、指摘されてはっきりと欠陥に気づいた。が、中年の男と女が出会ったその日に寝るという展開である。
その流れを上手く作るのは、相当難しい。若い頃にはそんなこともあったが、今では皆無だ。が、なんとか乏しい想像力を駆使して直し、監督、プロデューサーに送った。ああ、疲れた。「ボーイ・ミーツ・ガール」は、恋愛もののキモである。
幾多の映画作家たちの頭を悩ませてきた歴史でもある。
もう今日は他にやる気も起きず、テレビドラマの企画にと考えている小説を読んだり、東映の若者映画のシナリオを頭の中で転がしたりして、今日の仕事は終わる。
そう言えば今日は相米慎二さんの命日だ。相米さんは53歳で亡くなったが、僕はもうその歳を越えてしまった。相米さんとの出会いは、僕が日活に入社仕立ての昭和53年だ。僕は当時池袋北口日活(当時はまだにっかつではなく日活)で劇場勤務していたが、本社の意向で教育ビデオの製作を手伝えと言われて準備をしていた。そのビデオの監督をする予定になっていたのが蔵原惟二さんで、その打ち合わせの帰りにコーヒーでも飲もうという話になって渋谷で下車したのだが、喫茶店を物色して歩いていたら、蔵原さんが「よおっ」と二人の男とばったり出くわして挨拶をした。“ヒゲの高橋”さんと相米さんだった。
僕はもちろん、二人とは初対面だ。二人とも元日活の契約助監督で、数年前にクビを切られたこともその時知った。四人で喫茶店に入ったら、高橋さんが僕に対して怒りをぶつけ始めた。日活にクビを切られたことが未だに腹に据えかねていたらしく、その日活に社員で入った僕という存在にかなりムカついたのだろう。だが、経緯がまるでわかってなかった僕はただわけもわからず高橋さんの怒りを受け止めるしかなかった。
その時、助け舟を出してくれたのが、相米さんだった。
「入ったばっかりの新人にそんなこと言ったって、わかるわけないだろう」と高橋さんを宥めたのだ。その後、高橋さんとは別の機会に会ったのだが、ものすごくいい人だった。クビになった経緯がよほどひどかったということだと僕は理解した。
相米さんと最後に会ったのは、東中野の飲み屋だったが、長くなるのでその話はやめにする。
「あんな監督、もう二度と出ないだろうな」と誰もが言うような当たり前のことを僕も改めて思った。
2008年9月10日(水曜日)
東映の青春もののシナリオの書きに入る。が、その前に参考に『タップ』(脚本・監督 ニック・キャッスル/出演
グレゴリー・ハインズ スザンヌ・ダグラス サミー・デイヴィス・ジュニア)という映画を見る。ムショ帰りのタップダンサーが、犯罪者仲間たちにダイヤモンド収奪計画を持ちかけられながら、子持ちの元恋人のダンサーやその父親などとの触れ合いによって心を入れ替え、新しいタップダンスを生み出していくという話だ。あまり参考にはならなかったが、やはりダンスシーンはすごい。グレゴリー・ハインズという役者は元々タップダンサーだったのか、それとも役作りのために猛特訓したのか、映像処理でいくらか誤魔化しているとしても相当のテクニックを身につけてなければとても出来ないダンスだ。この辺り、やっぱりアメリカ映画は天晴れだ。
ストーリーがつまらないのが本当に惜しい。
が、人の映画をとやかく言っている場合じゃない。書き、なのだ。まずは表紙を作る。ハコは横書きで書くので、それを縦に直す。メインタイトル、サブタイトルの大きさやバランスをあれこれいじくっていると、それで3、40分はかかる。
次にハコの登場人物表も縦書きに直し、やっと書き始めることになる。今回はハコを三稿までやってその度に台詞が付け加わったりして、40ページくらいの長さになっている。第一稿は60〜70ページくらいの見積もりだから、数字だけで言うとあと三分の一くらい付け加えればいいという計算になるが、当然のごとくそうはならない。僕はハコの原稿を土台にして、シナリオを書いていくのだが、ハコで書いた柱もト書きも台詞もすべてたいていは一から洗い直すことになるので、白紙に書いていくのと変らない作業になる。
シナリオで一番悩むのは書き出しである。ハコの時点でファースト・シーン(シーン@)は決まっているので、書き出しとは映画がどんな映像から始まるのかということで、いつもそれで悩むのだ。それが決まれば後はだいたい走り出してくれる。途中、大小様々な壁にぶつかって立ち止まり、あれこれ悩むことは当然あるが、僕にとっては書き出しが一番の難関である。もっとも映画になった時、僕がない知恵を絞って考えた出だしが映像になっていたことはほとんどない。
それでもそれであれこれ悩むのは、書き出しでシナリオのリズムが決まるからだ。
三島由紀夫は「映画は文学ではなく、音楽だ」と言ったが、シナリオを書いているとそのことがよくわかる。ハコは数学で、それをシナリオで音楽にするのだ。
その昔、とある映画の打ち合わせ帰りの飲み屋で、若いプロデューサーに向かって、「プロットやハコは左脳で書いて、シナリオは右脳で書く」とかなんとか口から出任せを言った憶えがあるが、当たらずと言えども遠からずだと思う。
ところがである。最近、ハコを読んだことがない、または読めないプロデューサーなんかがたまにいて、往生こいたことが多々ある。特に僕はハコが細かいほうで、読みようによっては粗いシナリオのようにも読めるが、それを本当に粗いシナリオとして読む人がいるのだ。読める人は当然、それがシナリオになったらどうなるのか予測してくれるので問題ないが、ハコという存在がわからない人は「台詞が中途半端」だとか、「ディテールが描けてない」とか信じられないことを言う。それをこれから書くから、ハコがシナリオになって行くのがわからないらしい。だから、「ハコを読んだ時は本当に行けるかどうかわからなかったけど、シナリオになったらすごく良くなった」とか阿呆なことを言うのだ。だが恐いことに、そういう人がハコをそのまま読んでそれでシナリオの出来不出来の判断をしてしまったりするのだ。
そのせいで企画が飛んだり、ハコだけで判断されて知らないうちに別のライターが立てられたりしたこともある。だから、僕はあまり知らないプロデューサーや監督と仕事をする時は、相手が言い出さない限りハコは見せないことを心に誓ったのである。
因みに、今回のプロデューサーの加藤和夫さんも、監督の小松荘一郎さんも紛れもないプロフェッショナルなので、抵抗なくハコを作り、安心して打ち合わせが出来た。というより湯水のように出てくる二人のアイデアを頂きまくったのだ。
午前中、ずっと出だしに悩んだが、とうとう決められずに、午後は日活撮影所に行った。今現在、日活撮影所の若い女性のプロデューサーと一緒にテレビドラマの企画開発をしていて、集めた原作の検討と彼女が書き出している企画書の打ち合わせをした。やはり企画者の習い性は抜けないのだ。
2008年9月11日(木曜日)
歳のせいなのか、最近は夜中の三時頃に必ず目を覚ます。トイレに立ち、また布団に入るが、妙に目が冴えて眠れず、本を読むことになる。小一時間で眠気を催し、また寝るのが普通だが、そのまま眠れず七時くらいに起き出すこともある。ホンを書いている時は、眠れない時が多い。
七時に起きるのには、理由がある。アゲハの幼虫にエサをやるのだ。今の古家に越して来たその年、庭の柑橘系の木の葉っぱにアゲハの青虫を何匹か発見した。
が、しばらくして木を見に行ったら、どこにもいなかった。どうやら鳥に食われたらしい。うちの古家は武蔵野の森の近くにあるので、野鳥がいっぱい庭に飛んで来るのだ。
辛うじて見つけた一匹を捕まえ、虫籠を買ってきて飼った。以来、ほとんど毎年春と夏にアゲハの卵や幼虫を取っては、飼っている。春と夏というのは、アゲハには春型と夏型があるからだ。
エサは柑橘系の葉っぱだから、虫籠の糞を掃除してそのまま庭から葉っぱを切って来て放り込んでおくだけでいい。楽な飼育だ。成虫になれば飛んで行くので、死骸の始末もしなくていい。但し、厄介なこともある。風邪を引いて死ぬ。
奇形が生まれる。繭の時に、寄生バチにやられる。寄生バチは見た目は蟻のようだが、ちゃんと羽が生えていて飛び、虫籠の隙間から浸入して、アゲハの繭に卵を産み付けるのだ。その卵は、繭の中で孵化し、アゲハの体を食いつくして成長し、小さな穴を開けて、次から次へと飛び出し来る。エイリアンそのものだ。
アゲハは様々な危機を乗り越えて、羽化し空に飛び立っていくのだ。が、飛び立っても危険はある。
アゲハの中でも、黒アゲハは図体がナミアゲハより大きいせいか、何故か奇形になりやすいし、寄生バチにもやられやすい。が、成虫の黒光りした羽と、重量感のある飛び方はうっとりするほどで、ある日、奇形にもならず孵った成虫をわくわくしながら虫籠から庭に放してやると、どこかに潜んでいた野鳥がバサッと飛んで来て、パクッと黒アゲハに食らいついた。籠から飛び立った瞬間だった。
ほとんど一、二秒の命だ。野鳥は蝶の胴体しか食べない。後は羽だけが無惨に食い残されて庭に捨てられていった。
東映の若者映画のシナリオは、出だしをなんとかクリアして、七ページまで書いた。午前中に三ページ、昼飯の後は息抜きに韓国映画のDVDを見て、その後四ページ進めた。
見たDVDは『サイボーグでも大丈夫』だ。監督は『オールド・ボーイ』のパク・チャヌク。タイトルやカバー写真を見ると、さわやかなラヴ・コメみたいだが、中身は精神病院を舞台にした、かなりブラックなファンタジーである。
またまた感心した。ついこの間も、『カンナさん大成功です!』という韓国映画を見て感心したばっかりだ。これは原作が『白鳥麗子でございます!』の鈴木由美子だ。うまい! 泣けるぞ! キム・アジュンはメチャメチャ綺麗だぞ!と、「!」の連続だった。こういう映画作りたいな、とか思っていたら日本でリメイクするという。そういうことじゃないって!
九月に入っても、残暑のせいかアゲハはよく飛んでくる。
一、二年飼育をやめていたことがあって、その頃はアゲハがめっきり減って、代わりにタテハチョウなんかが飛んで来て、これは温暖化のせいで生態系が変ったのかと思っていたら、また飼育を始めてガンガン成虫を世に送り出したら、例年のようによく飛んでくるようになった。うちの古家の柑橘の木にはよくアゲハが飛んで来て、卵を産み付ける。どうやら、「あの家に行けば、飼ってもらって育ててくれる」と蝶の間でクチコミが広がっているらしい。
2008年9月12日(金曜日)
またか、食品偽装! 事故米転売にウナギの産地偽装! 因みにウナギの社長は自殺した。
また日本人のモラルの低下が叫ばれる。
けど、個人のモラルの問題か? こうなるのは当たり前だ。日本は文化の国ではなく、数字の国なのだ。というか、ほとんどの国が数字をこよなく愛している。
経済成長という奴だ。中国の食品問題を誰が笑えるのか。
転売社長もウナギ弥生社長もこう思っていたのに違いない。「バレなきゃいいんだ。みんなやってることじゃないか。世の中業績だ。経済成長だ、国益だ!」
思えばすごい。あの超一流食品メーカーの雪印や日本ハムも、老舗ブランド料亭・吉兆も・・・。偽装大国である。もっともアメリカでは、BSEの真相を追究していた学者が謎の死を遂げているらしい。これも数字のせいだ。牛肉はアメリカの数字を上げるウルトラクラスのアイテムである。真相如きは早々に捻り潰しておかないといけない。
我等が映画・テレビもとっくの昔から数字だ。うちの小六の次男坊が、僕のパソコンをいじって映画の興行ランキングを調べ、新聞に載る週間視聴率ランキングで騒いでいる。映画がコケたり、テレビの視聴率が取れなくても笑っていられた時代はどれくらい昔のことだろう。「みんなは××を見ているけど、俺はこれだよ」とマイ映画、マイドラマを得々と語っていた時代が嘘のようで、いまじゃまるでリアリティーがないとさえ思う。
毎日情報の嵐にさらされると、どの情報がいいのか悪いのか判断がつかなくなる。
どんな映画を見ていいのか、どんなドラマを見ていいのかもわからなくなる。
だから、みんなが知っているメディアがいっぱい宣伝しているものを見るという、ある意味“賢い”選択をして、映画館に足を向け、チャンネルを合わせる。
メガヒットはこうして生まれるらしい。
因みに日本映画の好調は中身の進歩というより、洋画の字幕を読むのが面倒な若者が増えてきたからだという人もいる。これが真実? 文化は滅亡の一途? さびしいね。
そんなこと思っていたせいか、息抜きのDVDも見ないで、一日中書いていたのに、東映若者映画は昨日と同じく七ページしか進まなかった。途中何度かストップした。主人公の少年が仲間と中古のレコード屋に行くシーンがあるが、彼等がどんな音楽を聴いているのかがわからない。聴くのは洋楽ということは決めているが、最近は洋楽にはとんとご無沙汰でわからない。うちの長男は主人公と同じ高校三年生だが、聴くのは「中島みゆき」「ユーミン」「山下達郎」等という邦楽の大レトロ趣味なので、ぜんぜん参考にならない。で、調べることになる。街へ出て中古レコード屋に飛び込んでもわかるとも思えず、ネットに頼ることになる。なんとか掴んで、アメリカのミュージシャンの名前をト書きに書き込むと、今度は主人公の親父の授業風景のシーンだ。親父は中学の英語教師だ。自分の中学の時の「ジャック・アンド・ベティ ジス・イズ・ア・ペン」の時代ではない。長男が中学の時に一度授業参観に行ったが、先生はほとんどネイティヴと変らない発音で流暢な英語で生徒たちに話かけ質問し、それに対して生徒も英語で答えていた。それを踏まえながら、“ユーモラスな授業”とハコに書いた以上、笑いを考えなければいけない。英語のダジャレでもやるか、と昔聞いたギャグを使ったが噴飯物である。が、後で直すつもりでそのままにする。というか、“後で直すから”と言い聞かせないと中々進まないのだ。
こういう態度だからいつまでたっても大したシナリオが書けないのかもしれない。
悩む時はとことん悩んで、そこから一歩も動かない、という“書けないという気概”が傑作を生むのかもしれないが、僕には無縁の境地である。
ああ、酒飲みてえ〜!
2008年9月13日(土曜日)
書く時は、たいていNHK−FMをつけっぱなしにしている。「映画は文学ではなく音楽である」ではないが、音楽を聴きながらのほうが断然作業が進む。
昔から「ながら」男で、シーンと静まりかえった中で何かをやるのは大の苦手だ。
気が散るという人もいるが、僕は静かだとかえって他事を考えたりしてどんどんレールを外れてしまうのだ。いつも聴いてるので、お気に入りの番組もできてくる。お勧めなのが、二つある。『気ままにクラシック』(金曜日:午後2:00〜3:55 再放送
月曜日:午前7:20〜9:15)と『世界の快適音楽セレクション』(土曜日:9:00〜10:57)である。
『気ままにクラシック』はDJがソプラノ歌手の幸田浩子と笑福亭笑瓶で、掛け合い漫才のようなトークをしながらクラシックの名曲を次々と紹介していく。
上方漫才風にいうと幸田がボケで笑瓶がツッコミだが、その呼吸が秀逸である。
笑瓶にツッコミを入れられて、ころころと笑う幸田の声がまるで楽器で奏でられたみたいに気持ちがいい。
『世界の快適音楽セレクション』はDJがゴンチチである。ゴンチチは、ゴンザレス三上とチチ松村のギターデュオである。中島らもと親交があっただけに、ゴンチチはかなりな笑いのツワモノなのだ。紹介される音楽はクラシック、ジャズ、カントリー、演歌、シャンソン、カンツォーネとジャンルが縦横無尽に飛ぶ。『つめたい東京』(加賀ひとみ)、『あかんたれ』(鶴岡雅義と東京ロマンチカ)、『おばちゃんのブルース』(笑福亭仁鶴)、『花うた街道』(田端義夫)、『沖縄そばの唄』(前川守賢)等々、よくぞ見つけてかけてくれたというどマイナー演歌セレクションも痺れる。
ゴンチチ様のおかげなのか、今日は10ページは書けた。夕方仕事を終えて、買い物がてらチャリでお隣の吉祥寺へ行く。恒例の秋祭りをやっていて、井の頭通りを神輿が練り歩き、商店街には露天が並んでいた。二軒スーパーを回ったが、一軒目から二軒目に向かう途中、「しまった」と思った。途上におそろしく悪臭を放つラーメン屋があるのだ。店構えはオシャレで、どこかのメジャーなハヤリ店から暖簾分けしたとかどうとかうたっている。時々若者の行列も出来ていて、数年前悪臭に耐えながら思い切って入ったことがある。あれ以来入ってないから、店主も店員も替わっているかもしれないが、悪臭だけは変らないので、同じようなラーメンを出しているのだと思う。
数年前に入った時のことである。二十代後半くらいの歳の店主と思われる男と二十代の店員が二、三人、その店主がパフォーマンスなのか、客の見ている前で店員を怒鳴りつけているのだ。
「てめえ、何やってんだよ。ラーメンの命はスープだろうが!」と店員の手からヘラを奪って、自ら寸胴鍋のスープをかき混ぜた。僕は思わず手で鼻を覆った。
かき混ぜるたびに、スープの臭いがカウンターに座る僕のほうに押し寄せてくるのだ。見ると、鍋の中には丸鳥が入っている。が、どう見ても鳥だけだ。
これでもかと入っている。スープは白濁して、まるで濁流と化している。
そしてとうとうブツが来た。くせえ〜!? 臭くても旨けりゃな、と食べてみる。
まっず〜っ!? 食べ残すのが嫌な性分だから、なんとか食べきろうと奮闘した。
ありがたいことに、生のおろしニンニクの壜があった。ショウガもあった。一口食べるたびに、ニンニクとショーガとコショウを加えて、味を誤魔化そうと奮闘した。だが、その不味さはビクともしない。それよりも、この臭いは何なのだろう。
生きる気力をなくさせるような臭いなのだ。それでやっと理解した。
これは丸鳥の死臭なのだ。三分の一を食べるのが限度だった。僕は逃げるように店を後にした。
それにしても、他の客は何ともなかったのだろうか。そう言えば淡々とラーメンを啜っていたおっさんがいた。カップルも何組かいた。中には「おいしい〜〜っ」と微笑んで、相手の男にほくほく顔を見せていた可愛い女の子もいた。
彼等はどういう舌をしてるのだろうか? 鼻に何か詰まってるんだろうか? なんであんなものを淡々と食べられるんだろうか? ましてや「おいしい〜〜っ」などとどんな口が言えるのだろうか? と思いながら、店から早足に歩き去った。
一刻もあの悪臭の呪縛から逃れたかったのだ。
店はあれからも一向に潰れず、たまに行列も出来ている。
人々の感覚の鈍磨はここまで極まっているのだろうか? それとも、僕の舌がおかしかったのだろうか? いずれにしてもあの悪臭は健在で、その店の近くにある進学塾に通っている小学生たちは、その店の半径五十メートル以内に近づかないよう細心の注意を払っているそうである。
2008年9月14日(日曜日)
この仕事、日曜も祭日もないが、休日となるとやはり気が緩む。三ページしか進まない。その三ページは前半の節目になるワンシーンで、あれやこれやといじくっているうちに一日が過ぎたという感じである。
それにしても一日は本当に短い。午前中このブログを書いて、次にシナリオに移って、昼飯を食って、ビデオで映画を見てその後昼寝して起きたら、もう午後三時だ。少し仕事をすればもう夕方で、ビールが飲みたくなってくる。
なんというグータラな人生だろうか、とぷっくり膨れた腹を眺める。
見た映画は川島雄三のデビュー作『還って来た男』だ。原作・脚本、織田作之助。
主演は佐野周二 田中絹代 三浦光子など。笠智衆や小津安二郎の喜八ものの坂本武などが出ていて、やはり松竹という感じがする。召集解除になった軍医が、父親に勧められた見合いを前に、色んな女性と知り合い、それぞれに思いを残しながら最後に見合い相手へと辿り着くという微笑ましいライト・コメディーだ。
昭和19年、戦時中の作品とは思えないほど牧歌的かつテンポのいい映画だ。
川島雄三は織田作之助が好きで、『貸間あり』の脚本を一緒に書いていた藤本義一にこんなことを言っている。
「無頼は織田作である。安吾、太宰は無頼じゃない。あいつらは論理を持っている」「織田作は東京へ出てきて、敗退して帰るじゃないか、ずっと大阪弁で書いていたじゃないか。だから駄目だったんだ。太宰はどうなんだ。
東京へ出てきて、津軽弁を書いたのはごく一部じゃないか。あとは全部東京の出版社が売れるように書いたじゃないか。どうして本音で、故郷の地の部分を出さなかったのか、どうして『斜陽』を書いたのか」(藤本義一:『川島雄三、サヨナラだけが人生だ』)
太宰治と同じ青森出身の川島は太宰が大嫌いだったらしい。ついでだが、川島は映画の原作というものについてこんなことを言っている。
「原作というのは、会社が金払って、買ったわけだから、これは嫁だ。
嫁だったら、まだ慈しむこともできるだろう。でも売ったんだったら、女郎じゃないか。脚色者や監督というのが、引っくり返そうが、マゾヒスティックに撮ろうが、あるいは二階から突き落とそうが、これは良いんじゃないか。
これだけの人物、これは面白いから、これをさらに際立たせたりする。だから強姦かね」(同上)。最近の原作を巡る諸問題を思うと、隔世の感がある。
因みに川島雄三の代名詞のようにされている「サヨナラだけが人生だ」は『貸間あり』の原作の井伏鱒二の『厄よけ詩集』という訳詩集から取られているらしく、アパートの住人の一人の女性が故郷へ帰る時、住人たちが送別会を開き、その時の台詞に引用されている。元々の漢詩は『勧酒』というものだそうで、その中の「人生足別離」(人生は別離に足る?)というのを井伏鱒二が「サヨナラだけが人生だ」と大胆に意訳したのだ。
「井伏さんは悪人です」と遺書に書いた太宰治は、井伏のこの「サヨナラだけが人生だ」に触発されて『グッド・バイ』を書いたと本人が言っている。太宰は『グッド・バイ』を完成させないまま、美容師の山崎富栄と一緒に玉川上水で入水した。妙な巡り合わせである。
というわけで、今回で僕の回は終わり、次からは井上由美子さんに引き継いで頂きます。井上さんはシナリオ作家協会の理事であり、僕と同じく総務委員会の委員を務めておられて、委員会ではちょくちょくお会いしていますが、残念ながらゆっくりお話をする機会もありませんでした。ブログ、楽しみにしております。超ご多忙の中大変だと思いますが、どうかよろしくお願いします。