2009年8月3日(月曜日)
渡辺寿です。本日よりシナリオ作家日記を仰せつかりました。
1週間、よろしくおつきあい願います。
朝9時起床。昨夜は寝床に入って沢木耕太郎著『無名』を読み始めたら止められなくなって、結局明け方まで読み続けてしまった。
ぼくはこの作品が好きだ。すでに2度読了している。それでもまだ読みたいらしい。気に入った本を繰りかえし読む癖がぼくにはある。
寝不足だがデスクトップ・パソコンに火を入れる。「火を入れる」とは表現が古い。
立ち上がる、いや起動する間に洗面をすませ、メールをチェック。そして新聞各紙のサイトを渡り歩いて見出しを流し読み、気になる記事は本文を読んでデータベースに叩き込む。福岡県生まれなので西日本新聞もチェックする。
それから普段だと昨日の日記をつけるのだが、今日からは2種類も日記を書くのかよと思うと気が進まない。日記はノートに万年筆で書くことに決めている。忘れて書けなくなった漢字が嫌になるほど出てくるが、このときばかりはこまめに辞書を引こうと自分に決めている。
時計に目をやるとはや正午になろうとしている。朝飯を食わねば。
先週まで時代劇のプロットを書いていた故、頭に浮かぶ言葉が江戸時代になっておる。いまはそれを修正しながら書いている。その前は、博多が舞台のプロットば書いとったけん、博多弁になっとったたい。
インターネットで今日の記念日を調べる。今日は「ハチミツの日」だそうだ。8月3日の単純な語呂合わせだ。ならば3月8日は「ミツバチの日」だろうかと暦を後戻りさせると、「国際女性デー」だった。1904年3月8日、ニューヨークで女性労働者が婦人参政権を要求してデモを起こしたとウィキペディアにあった。
将来、8月3日は日本で初めて裁判員裁判が開始された日として記されるのだろう。それにしても殺意の強さが争点となるケースが最初に来るとは……。殺意の強弱をどうやって推し量るのだろう。できれば評議、評決のプロセスを公開して欲しいものだ。
さて今日は何をするか。予定表は真っ白だ。いや正確には「シナリオ作家日記」と1行だけ記されている。今週は予定が何も入っていない。つもりとしては、先週書き上げた映画プロットを推敲し、改訂を加えるつもりでいる。少し短くもしたい。そのために3人の友人に読んでもらっていて、意見を聞くことになっている。
シナリオ作家日記なのだから脚本のことを書くべきなのだろうが、評論家ではないので他人の脚本を論じる気にはなれず、自信家ではないので自らのこれまでの脚本を解説する気にもなれず、かといっていま進めている企画については公表することができない。そんなら何ば書きゃよかと?
本来であれば、1日より宮崎へ行く予定だった。いや約束だった。この土日、日向市で「ひむかの国 こども落語全国大会」が開かれ、ぼくは地元の友人に必ず観に行くと約束してあったのだ。
1日2日は日向市で遊び、宮崎市に移動して今夜は飲んだくれる。会いたい友も数人いる。話を伺いたい先生もいる。
しかしその約束を反古にしてしまった。理由は貧乏である。どうにも金がないのだ。「貧乏ゆえ約束を破る」と友にメールで謝ると、「私の方も貧乏暇なしです」と返ってきた。括弧つきで、でも仕事があるだけ幸せ、とあった。
ぼくが宮崎好きになったのは、歌人・若山牧水だ。東国原さんが知事になる少し前、宮崎放送が牧水の番組を作ることになり、監督がぼくを脚本に指名した。ぼくはこれまでテレビは1本しかやったことがない。正直なところあまり気乗りしなかったのだが、それでも資料を集めて目を通している内に若山牧水という男と作品に惚れてしまった。歌はもちろん良いのだが、殊に紀行文に何とも言えぬ彼の魅力を覚えた。
そうこうしているうちに、突然監督が降りることになった。何が理由なのか、ぼくには理解できなかった。降りるべきでないと説得したが、もう彼は聞く耳を持たなかった。本来なら、そこでぼくも一緒に降りるべきと思ったのだが、そのときすでに、ぼくは牧水に魅了されていて、脚本の初稿だけでも書き上げてから降りようと思った。
しかし、初稿はあえなく却下された。理由は、宮崎が舞台のシーンをもっと増やして欲しい、ということだった。
牧水は早稲田を卒業して以来、あまり帰郷していない。正確に言うと帰郷したがらなかった。
その理由をここに書く余裕はないが、そんなわけで牧水に惚れ込んだぼくの書いた脚本も宮崎舞台が少なくなってしまったのだ。
困った。どうやって宮崎メインの構成にしようか。
考えあぐねていたちょうどその頃、ひょんな偶然の重なりで、詩人の佐々木幹郎氏と出会った。
牧水をやるなら歌集『みなかみ』を読め。『みなかみ』を読まないと牧水は分からないというのが彼のくれたアドバイスだった。
結婚してまもなく、牧水は父危篤の知らせを受けて帰郷する。そして、東京で文学などにうつつを抜かしていないで、実家で両親を扶養しろと親戚や姉たちに責められる。そのときの懊悩を歌ったのが歌集『みなかみ』なのだ。一首上げると――
納戸の隅に折から一挺の大鎌あり、汝が意志をまぐるなといふが如くに
これって短歌かよ。
五七五七七じゃないじゃん。
とんでもない破調歌だ。しかし当時の書簡を読んでいくと、破調にならざるを得ない牧水の内なる格闘が見えてきた。いや、正確に言おう。見えてくるような気がした。
そしてぼく自身にとっても、この歌は最も大切な歌になった。
脚本を書き上げたら、お前が監督しろ、ということになってしまった。
宮崎放送のスタッフとの仕事は実に楽しかった。真面目で気の良い男たちばかりで、夜の飲み会も愉しかった。宮崎市内に馴染みの店もできた。
以来、ぼくは宮崎と牧水を愛しつづけ、牧水の歌と紀行文と資料を読みあさっている。
そんなわけで、今宵宮崎で飲んでいないのが如何ともしがたく口惜しい。
なんだか日記になってないけど、今夜はこのあたりで。
けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く 牧水
2009年8月4日(火曜日)
10時半起床。
文章を書くと興奮すると書かれていたのは、丸谷才一著『女ざかり』だったろうか。昨夜は寝不足だったにもかかわらず、初めての公開日記を書いて興奮したのか、なかなか寝付けなかった。
仕方なく沢木耕太郎著『無名』の読み残した最終章を開いてしまう。ますます眠れなくなってしまうのは分かっていたのだが。
思ったとおり興奮に感動が重なって、ようやく寝付いたのは朝の7時半を過ぎていた。寝不足のダブルだ。
いつものようにお昼に朝飯を食う。冷や奴、おくらを加えた納豆、そしてトマト。食べながらふと思った。おくら入り納豆とはなんだか不吉だ。「お蔵入り納得」と響きが似てないか。お蔵入りを納得することなんかあり得ないだろうに。
昼を過ぎたらどっと睡魔が襲ってきた。ここで眠るとせっかく夜型から朝型に生活を切り替えたのが台無しになる。ケツを叩いて外に出ることにした。
ぼくは放っておくと一日中パソコンの前に座っている。しかし腹が減れば動かざるをえないから、食料は極力買い置きをしない。だから冷蔵庫はいつも空っぽだ。
我が家より最寄り駅までは徒歩20分。ルートは3本。山と谷を左右に迂回するルートと山と谷を中央突破するルートだ。
谷間は樹木の多い公園になっていて、春先はおむすびを作って新緑をめでながら独りピクニックを楽しんだが、こう暑くなるとその気にもなれない。
最寄り駅の周囲には繁華街と商店街が混在する幾筋かの通りがあり、それを隈無く歩く。近くに高校と大学が多いせいか、街には青少年が溢れている。その隙間を縫ってひたすら歩く。歩きながら何を見るでもなく、結局、先週書いたプロットのことを考えている。
安カフェで珈琲を飲む。プロットを読み返す。すんなりと読める。
その、すんなりと読めてしまうことが気にくわない。ストーリーのために人の有り様を歪めていないか、等閑にしてはいないかと自らに問う。
友人F曰く。「たいへん面白かった。構成の巧みさに驚いた。ただひとつだけ、とても残酷に感じるシーンがある。その残酷さはなんとかならないのか」
これは意外な指摘だった。彼が指摘する「残酷に感じるシーン」というのは、身体を痛めつけたり切断したりする、いわゆる視覚的な残酷シーンではない。そのシーンが残酷かそうでないかは別にして、彼が「残酷に感じた」という言葉のもうひとつ奥に、ほんとうの言わんとしていることが潜んでいるのかもしれない。
「お蔵入り納得」かなあ、このプロット。
弱気になっている自分を嗤っているもうひとりの自分がいる。
脳みそを亀の子たわしでジャブジャブ洗いたい気分だ。
安カフェを出て、再び青少年たちの隙間を縫って歩く。図書館へ行く。
牧水の紀行文が読みたくなった。ぼくはまだ彼の全集を揃えていない。歌集はすべてパソコンに入っている。
『静かなる旅をゆきつつ』と『みなかみ紀行』の所収された巻を借りる。ほとんど読んでしまっているのだが、目次を見ると中に2、3作、未読のものがある。
牧水は気まぐれで旅の計画をしょっちゅう変更するのだが、同じ道を引き返すことだけは殊更嫌った。牧水にあやかって、往路とは別のルートで帰宅する。
デスクトップ・パソコンに火を入れると、ディスプレイのちょうど真上に満月手前の月が雲の隙間から顔を出した。満月は明後日だ。
今夜は早く寝よう。
月の夜や裸形のをんなそらに舞ひ地に影せぬ静けさおもふ 牧水
2009年8月5日(水曜日)
9時半に目覚ましをセットしていたが7時半に目が覚める。
体調、すこぶる悪し。3Gぐらい重力をかけられたみたいに身体が重たい。
久しぶりに電車に乗って明大前へ。先輩監督のNさんと会う。
通常は下北沢駅で小田急線から井の頭線に乗り換えて明大前へ行くのだが、手前の豪徳寺駅で降りて歩くことにする。三角形の二辺を電車で行くところを残りの一辺を徒歩で行く、とイメージしてもらえばいいかな。
湿度の高い昼日中になぜそんなことをしたかというと、豪徳寺から明大前へ道筋に、かつて住んでいたアパートがある。いま、どうなっているのか見てみたかった。
豪徳寺商店街は人通りが少なく寂れた印象を受けた。しかしそれは、今日が定休日の店が多く、シャッターを閉じた店が目に付いたせいだろう。
ぼくの住んでいたアパートは、松原6丁目の交差点のすぐそばに、かつてと変わらないたたずまいで建っていた。名前も変わっていない。ぼくの住んでいた部屋も健在だった。もちろんいまも誰かが住んでいる。
ほんの一瞬だが、マンションを買おうかという気になって、近くに新築されたマンションを見学に行ったことがあった。そのマンションも健在だったが、むしろそちらの方が古ぼけて見えた。外壁が白色で、汚れが目立ったせいだろう。
30代の初めにこのアパートに住み、脚本1作目の「刑事物語2 りんごの詩」を書き、「生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件」を書き、日活ロマンポルノを2本書いた。
仕事がないときは窓から病院の庭の大木を眺めてすごした。午後になると赤いフォルクスワーゲン・ゴルフが眼下の駐車場に止まり、生まれて間もない子犬と子猫を両腕に抱いて我が家へやって来る女がいた。我が家は俄然にぎやかになり、だが午後4時を過ぎると女は決まって帰っていく。
ベランダから真俯瞰に近い角度で見下ろすコンクリート色の駐車場を、赤色のゴルフが滑り出していく光景は、いまでもぼくの脳裏に明瞭な絵として残っている。その女が自死して25年になる。いまも祥月命日の墓参は欠かさない。
「生きてみたいもう一度」は初稿を書くのに半年かかった。ぼくがなかなか書き出さないものだから、業を煮やした恩地監督は製作部に命じて、毎朝明け方、ぼくのアパートに書いた原稿を取りに寄越した。夜型のぼくは、寝る前にその日書いた十数枚の原稿を製作部に渡し、製作部はそれを目覚めた恩地監督に届けるのだ。それが、脱稿するまで連日つづいた。製作部もたいへんだったろうと思う。パソコンはもちろんファクシミリもなかった時代である。隔世の感あり、だ。
豪徳寺〜明大前は距離にして約2キロ、20分で歩いた。電車賃が150円浮いた。
N監督に会うのは6月初旬、阿佐ヶ谷で会って以来だ。ぼくの書いたプロット、脚本を彼はほとんど読んでいる。今日会った目的も、先週書いたプロットの意見を求めることだ。
いつもは先に郵送しておいて、読んでもらったうえで会うのだが、今日はその場で渡し、今すぐ読んで意見を言ってほしいと頼んだ。身勝手この上ない後輩に、笑って応じてくれる先輩である。理由は読むテンポや表情を見ていたかった。
N監督とぼくは映画に限らず、多くの物事で感じ方や意見が異なることが多い。だから出会った当初はよく口角泡を飛ばして議論した。喧嘩別れしなかったのが不思議だ。疎遠にならなかったのは奇跡に近い。しかし数年前からは互いにお行儀良く意見を述べ合うようになった。
前回6月に会ったのもぼくのプロットに意見を求めたのだが、「理解できない」「いくつか違和感を覚えるところがある」と言われ、カリカリと頭に来るやガッカリするやをぐっと腹に飲み込んでぼくは家路についた。
ところがである。今日のプロットについては、ぼくの感じているのとほぼ同じ答えが返ってきた。曰く。「映画って面白いというだけでいいのかなあ」「ラストの意味が不明確」
そのとおり! これまでNさんとこんなにも意見が合ったことは一度もない。
そして極めつけ。「バラバラにして、人物をもう一度見つめ直してみたら」
ショック! この数日間自分が決断できないままぼんやりと頭に浮かべていることをズバリと、それも軽く言われてしまった。
Nさんは酒を飲まないので珈琲だけで大人しく別れた。
すれ違う人々のにぎわいが、フィルターを通したように遠くに聞こえる。
N監督、ありがとうございました。また煩わせてしまいましたね。
しかし映画について、ぼくは、往生際が悪いです。これしきでは……。
歩きつつひとり言いふはしたなき癖さへいつか身につけしかな 牧水
2009年8月6日(木曜日)
8時半起床。
私は、「絶対」という言葉が嫌いである。
「絶対」という言葉を多用する人の話は疑ってかかることにしている。
「絶対」などそうそうあるものじゃない。だが、ひとつだけ使う。
戦争は、絶対に起こしてはならない。
この絶対に、例外を作ってはならない。解釈を加えてはならない。
自衛のための攻撃も、正義のための戦争も、エゴイズムが潜んでいる。
戦争を決める人は、現場にはいない。柔らかなソファに座っている。大量殺戮兵器のスイッチを押すのは9時5時で働く給料取りだ。家に帰って家族と食事をともにする。
1945年の今夜がそうだったじゃないか。広島の市民の悲惨を誰が想像していただろう。
辺見庸さんが朝日新聞(6月17日付朝刊)に書いていた。
「世界というよりもっぱら世間にぞくする私たちは、がいして悩むことのできる悩みしか悩まない。耐えることのできる悲しみしか悲しまない。おのれの“苦悩容量”をこえる巨きな悩みや悲しみをわれわれは無意識に〈なかったこと〉にしてしまう傾向がある」
死刑制度に関して書かれたものだが、戦争と戦争責任についても同じことがいえまいか。私たちは、無謀な玉砕と特攻と集団自決で多くの国民を死に至らしめた国の国民である。
今日は何も予定がない。ショパンをずっと流しっぱなしにしている。
「戦場のピアニスト」の「バラード NO.1」は素晴らしかった。
ぼくは「ワルツ Am」が好きだ。
「清作の妻」を思い浮かべる。小説(吉田絃二郎)もいい。映画(監督増村保造 脚本新藤兼人)もいい。夫を出征させないために夫の両目を突き刺す妻の話だ。ラストにおいて、映画は小説を越えていると思う。しかし夫が妻を理解するにはかなりの時間が必要だろう。そこでひとつのドラマが生まれそうな気もする。
漠然とそんなことを思い浮かべながら、いつの間にか日が暮れて今宵もディスプレイの真上に月が顔を出す。満月だ。
狼男のごとく今夜は徘徊しようかな。
HERBIEへ行ってマイルス・デイビスを聴きながらギネスを飲もう。この日記をアップロードしたら。
光無きいのちの在りてあめつちに生くとふことのいかに寂しき 牧水
2009年8月7日(金曜日)
朝5時半に帰宅。しばらく読書して就寝。
10時半起床。昼前に起きられてよかった。夜型に戻らずにすむ。
不思議というか、ヘンなことがあった。一昨日、N監督にクルマで経堂駅まで送ってもらった。そのまま電車に乗る気になれず経堂の街をぶらついていると、空腹を覚えたので食堂に入った。座ったカウンターの下の棚に分厚い財布があった。おそらく前の客が忘れたものだ。
店員からは死角になっていて誰も気づかなかったのだ。
ぼくは「忘れ物だろう」と告げて財布を店員に渡した。そしてなぜか持ち主のことを思った。
思ったというか、具体的なイメージが脳裏に湧き上がった。彼(男物だったので)はいま慌てている。忘れたことに気づいて、まもなくここに駆け戻ってくる――。
注文したカレーを食べ始めてまもなく学生とおぼしき青年が飛び込んできて財布を受け取って帰って行った。
ここでヘンなのだが、そのときぼくは、この青年と同じ経験を近々するに違いないと、わけもなく感じてしまったのだ。恩返しを先にするような不思議な気分になった。予知能力なんてものがぼくにあるわけがない。だがそう感じてしまったのだから、気をつけようと自らに言った。
そして昨夜、HERBIEで飲んだあと、店主と近くの居酒屋へ行った。途中から別のバーの店主も加わり3人で閉店まで飲んだ。店を出ると朝の5時だ。別れてひとり家路を歩き始めて気がついた。ズボンの後ろポケットに財布がない。やってしまった。急いで居酒屋へ戻るのだが、その僅かな道のりの遠いこと遠いこと。幸い居酒屋の店員がまだ残っていて、財布は無事ぼくのポケットへ戻った。
ヘンなので易を立ててみた。易経をちゃんと学んだわけではない。筮竹を操作するわけでもない。6個の陰陽を出して観るのだ。高島嘉右衛門の伝記を読むと、彼も伝馬町の牢の中で同じ方法を用いている。
「雷水解」の初爻と出た。〈解放・氷解・幸運・分解・解雇・キャンセル〉とキーワードが並ぶ。
ウェブサイト「易経数え歌」には〈待ちに待った雪解けの時。問題を解く道。反対に解散・解雇などの暗示もある〉とある。要するに、良くなっていくけど調子に乗るなってことだな、と勝手に解釈する。
そして不思議な気分になった。実は先週書いたプロットで、易を一度だけ使った。そこでは「水雷屯」を用いた。もちろん意図的にこの卦を選んだのだ。
四難卦のひとつではあるが、〈雪が積もっている。だがその下の大地では、植物がもう芽を吹いている〉と解釈させた。
なんだか続きみたいな気がする。やっぱりヘンだ。
1週間後に母の祥月命日がやって来る。昨日あたりからぼくは憂鬱になりはじめている。恥ずかしいけれど、ぼくはまだ母の死を越えられないでいる。
昨夜のHERBIEで隣に座った常連さんが、「今夜は親父の通夜なんです」と話しかけてきた。
大腸ガンが転移してしまったのだそうだ。享年71歳。早すぎる死だ。かける言葉も見つからず、彼の話をずっと聞いていた。
母の死は、ローソクの火が燃え尽きるような静かな死だった。通夜の夜、ぼくはそばを離れられないまま朝を迎えた。隣の部屋からアテネ・オリンピックの開会式のテレビ中継の音が聞こえていた。
憂鬱だが、久しぶりの夏らしい陽光に誘われて外に出た。
いつものように最寄り駅周囲の繁華街を歩く。前をかつてのボディ・コンシャスみたいなミニスカートのワンピースを着た女性が歩いていく。だが身体の線は明らかに男性のものだ。
女になりたいんだろうなあ。なれればいいのになあ、と思うと切なくなってきて、ぼくは急ぎ足で追い抜いて安カフェに入った。するとその彼(彼女)も入ってきて、ぼくの近くに席を取った。
しきりに前髪に手をかけて後ろに流す仕草を繰りかえしながら、彼(彼女)は、ぼくが1本の煙草を吸い終わるまでに、4本煙草に火をつけた。前髪をしきりに後ろへ流しながら、彼女の視線は、若い女性4人組のにぎやかなテーブルに注がれていた。
秋になったら旅をしよう、と唐突に思う。
牧水の旅をできるだけそのままに辿ってみたい。できれば歩いた道は歩いて。
「静かなる旅をゆきつつ」の中に、大正7年11月に群馬県から長野県を旅した紀行文がある。
その旅をなぞってみたい。彼が使用したのと同じ五万分の一の地図は揃えてある。版は違うけど。
彼は妻や子にこまめに手紙を書いて旅の経過を知らせるのだが、ぼくにはその相手はいない。彼は草鞋で歩くのを好んだが、それは無理かな。パソコンは携行せず原稿用紙に万年筆で記録をとろう。これもかなりむずかしいなあ。辞書を持って行かなきゃ。
しかし今年書いた2本のプロットは原稿用紙に書いた。それを推敲しながらパソコンに打ち込んだ。うまく説明できないが、キーボードを打つのと原稿用紙に肉筆で書くのは、文章がどこか違ってくる気がする。気のせいかもしれない。気のせいでも何かが違う。
じつは同じ試みを「わらびのこう」の初稿でやろうとした。しかし、そのときは忘れた漢字の多さに耐えきれず、すぐに諦めてしまった。使わない能力は衰えるように人間はできていることを実感した。
話は戻るが、大正7年秋といえば、スペイン風邪が世界中に蔓延し、日本でも2,500万人が感染し、38万人が死亡したという。奇しくもこの秋は、新型インフルエンザが猛威をふるうのだろうか。
しかし人類は克服するに違いないと、ぼくは信じている。
とりとめのない一日だったのでとりとめのない日記になってしまった。
わが行くは山の窪なるひとつ路冬日ひかりて氷りたる路 牧水
2009年8月8日(土曜日)
とんでもない時刻に呼び出しを受けた。午前4時、駅近くの居酒屋(24時間営業!)で友人Fと会う。彼は映画にしたい物語の腹案を持っていて、以前よりそれを聞く約束をしていたのだ。それが彼の仕事の都合上、今朝の4時になったというわけだ。
映画をよく観ている人だけあって、彼の物語には興味をひかれた。だが如何せん、人間が薄い。毎度乗り越えねばならない関門だが、やはり人間を深く見つめないことには。
8時半まで飲みながら話し込んだ。継続して知恵を出し合うことにして別れる。
帰宅しても睡魔はどこか他所へ行ってしまっている。月刊シナリオの連載「水木洋子の一生」(加藤馨)と「映画の中の『名セリフ・名シーン』」(久保田圭司)を読む。そのうちドアフォンが鳴り速達郵便が届く。宅急便が届く。
10時就寝。12時起床。なんちゅう生活しとるんだろう。
今日は、ぼくにとっては密かな記念日だ。恥ずかしいけれどさわりだけ書こう。
1953年、父が交通事故で左足を失った。父は36歳、ぼくは生後2年足らずだ。だからぼくの記憶に両足で歩く父の姿はない。会社を軌道に乗せようとしていた父の人生が大きく狂いだす。30代半ばの若さで、きつかったろうと思う。父は荒れた(らしい)。母は耐えられず、何度か姉とぼくの手を引いて実家に帰った。
フリードリヒ・フォン・シラーは書いている。
〈未来はためらいながら近づき、現在は矢のように飛び去り、過去は永遠に静止している〉
(翻訳者?)
過去が永遠に静止していて、もう取り返しがつかないことを認めるには時間がかかる場合がある。犯罪被害者の終わらない過酷な苦悩もここにありはしないだろうか。事件に遭う直前から、人生をやり直せたらどんなにいいだろう。
1959年の今日だ。ぼくははっきりと覚えている。
父は「お父さんは今日から変わる」とぼくに言った。そして「これまでのように苛立っておまえたちに怒鳴ったりしない」と。
しかしぼくには父に怒鳴られた記憶がなかった。でも父は苛立ちのあまり怒鳴ったことがあったのだろう。
ぼくの記憶に残っているのは、逆に、哀しい表情をした父の顔だ。ぼくは新しいズボンのベルトが欲しかった。父は、古くなって使えなくなったら買ってやると言った。そこでぼくは手斧の背でベルトを叩いた。切れそうになるまで叩き、「ほら、こんなに古くなったよ」と父に見せた。そのときの父の哀しい顔を、ぼくは忘れることができない。父は、子どもにベルト一本買ってやれない自分の不甲斐なさを嘆いたのに違いない。
しかし父はほんとうに変わった。自転車のペダルに針金で輪っかを作り、そこに足を入れて、右足一本で自転車に乗れるようにした。その初めての試乗のとき、広場をよろよろと走り出す父の自転車のあとを小学2年のぼくはどこまでも追って走った。なにせ左側に倒れたら支えるべき足がないのだから気が気ではなかった。
父の行動範囲は大いに拡大し、それにともない明るさを取り戻した。やがてスバル360のオートマチック車が発売されるといち早くそれを求め、教習所に持ち込んで自動車免許を取得した。
以来クルマが父の足になった。母が商売で支えてきた家計にも寄与するようになった。酒が好きで、酔うと「ぽっぽっぽ、鳩ぽっぽ・・・」と歌い出す陽気な父に変わった。
これは大人になってつけた理屈だが、自転車のペダルに針金の輪っかを取り付けるだけで、片足でも乗れるという新しい価値を生むというのは、ぼくにとって映画作りの原点だと思っている。
だから8月8日は記念日なのだ。祝いの酒を酌みたいところだが、父は他界してすでにこの世の人ではない。
月も雲に隠れて顔を見せないし今夜は早く寝よう。この数日の睡眠不足をチャラにせねば。
とこしへに解けぬひとつの不可思議の生きてうごくと自らをおもふ 牧水
2009年8月9日(日曜日)
9時起床。
昨夜は早く床に就いたのだが、月刊シナリオの連載「水木洋子の一生」と「映画の中の『名セリフ・名シーン』」が面白くて、バックナンバーを引っ張り出して読んでしまった。気がつくと午前1時を過ぎていた。でもまあ、よく眠ったほうだ。
今日は日曜日だが、独り者の脚本家には土日も祝日もない。仕事がないと逆に、毎日が土日のようなものだ。
平岡正明さんが亡くなって一月が経った。
亡くなった人はどこへ行ってしまうのだろうとあらためて考えてしまう。考えても分かるわけないのだが。
「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれへん」と、モーツァルトの交響曲39番を聴いて感じた『錦繍』(宮本輝著)の女主人公は、いったい何を言おうとしたのだろう。
平岡さんの逝去を知った日から、彼の著作を毎日少しずつ読みつづけている。いまは『ジャズ的』と『野毛的』を読んでいる。少なくとも百箇日ぐらいまではつづけるつもりでいる。
今日知ったのだが、昨日8日はビートルズのアルバム「アビー・ロード」のジャケット写真が撮影された日だったのだそうだ。1969年だからもう40年が経ったのだ。時差があるから今日でもいいかと思い、朝からずっとビートルズを流している。久しぶりに聴いて、ポールのベースの巧さにあらためて驚嘆してしまった。
宮崎の友人Kさんから今年もお中元が届いた。宮崎の焼酎「あくがれ」だ。Kさんは建設業を営むかたわら、全国に発信できるものを作りたいと焼酎造りをはじめた。すぐ近くに若山牧水の生家が残っている。そこで銘柄を「あくがれ」とした。
「あこがれ」は啄木、牧水は「あくがれ」だ。あくがれには、いま居る処を離れて未知の地へ行きたいという好奇に満ちた気持ちが込められている。カール・ブッセの『山のあなた』に通じる気分と言っても良いだろう。牧水はあくがれを生きた人だった。
幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく
しかしあくがれて行くことは苦境に自ら踏み込むことでもある。寂寥に晒されることでもある。「寂しさの終てなむ国」などないことを牧水は知っていた。しかしなにものかに急き立てられるように牧水はあくがれて行く。それは、苦境を乗り越えてこそ、ほんとうの歓喜に至ることを知っていたからだと思う。あくがれて行くことは身を削ることでもあった。それこそが牧水にとって、生きるということだったのだろう。
余談だが、牧水と啄木に付き合いがあったことは意外と知られていない。それだけではない。牧水は啄木の臨終を見とっている。
はつ夏の曇りの底に桜咲き居り衰へはてて君死ににけり
その数日前、土岐哀果が東雲堂に『悲しき玩具』の出版を掛け合って、啄木のために金を算段するのだが、それを哀果に依頼したのも牧水だ。「石川啄木君と僕」「石川啄木君の歌」「石川啄木の臨終」に、牧水は啄木への哀惜を綴っている。
いけない。また脱線してしまった。日記に戻ろう。
夕刻、今日も街を歩く。陸橋の階段を上りきったら視界にちらちらと画面のノイズのようなものが浮かびだした。いかん。貧血だ。階段を駆け下りれば治るかとも思ったがそんなことはないわけで、早々に安カフェに避難した。
サンドウィッチと珈琲を摂り、貧血は治まった。しかし今度は、周りの人々の談笑が頭の中でやたらと共鳴し合ってうるさくてしようがない。気でも狂いはじめたか。
再び街を歩き、大道芸を見物し、広場のベンチに座って、人々の行き交う夕暮れをぼんやりと眺める――
出来事の多い1週間だった。
初めての裁判員裁判が行われ、芸能人の薬物逮捕があり、大女優の孤独な死があり、元アイドルの覚醒剤に絡む失踪〜逮捕状〜逃走〜逮捕があり、広島と長崎の64年目の原爆忌があった。
ぼくはそれら世の中の出来事について、この日記ではほとんど触れなかった。事実について脚本家は、自ら調べ、知り得たこと以外は書いてはならないと考えている。知らないことは書けない。報道に憶測を加えたものなど書くべきではない。だからかまびすしい世の中に背を向け、もっぱら没個人的なことばかりを書いた。
牧水流の極端を言えば、「感じた通りに詠め。感じないものを感じたごとく詠むことをするな」
(『短歌作法』)である。また「粉飾し、作為し、やがて全然自己を遊離し去った芸術といふものに、本当に何の味があるのであろう」(『牧水歌話』)である。
1週間おつきあいくださいましてありがとうございました。
どこかでお目にかかることがあれば「渡辺、書いてるか」と気軽に声をかけてください。おそらくぼくは「恥をかいてますよ」と頭を掻きながら応えるでしょう。
自らの恥を書きながら、もう少しだけ生きてみたいと思っています。
はつとしてわれに返れば満目の冬草原をわが歩み居り 牧水