シナリオ講座      一般社団法人シナリオ作家協会


     

  
 中野顕彰 (シナリオ作家)

  中野顕彰・略歴
  1938年、東京生。
  2000年まで、シナリオを執筆。
  2001年より、筆名を《中野圭一郎》と改め、小説に挑戦。
  『忠臣蔵・とがなくて死す(実業之日本社)』などを発表。
  現在、雑誌『百楽』で《歴史探検》を連載中。


                            


2010年2月1日(月曜日)

(文中の△は、電話を掛けた。▽は、掛かって来た。
▲は、mailを送った。▼は、mailが来た。を表す。)

『百楽・3月号』が送られて来た。
連載中の『歴史探検』は、13回目を迎えた。丸一年が過ぎたのである。

小説を書きはじめて感じたことは、マイ・ペースで仕事が出来て、ストレスを
感じなくなり、体調がよくなったことである。(編集長との信頼関係もあるが)
勝手にテーマを決めさせて貰い、締め切り寸前に▲を入れると、数日後には▼が返って来る。
ゲラである。ほとんどチェックは入れない。文章には、推敲を重ねているからである。
それだけに、誤字脱字を含めて、全責任は(当然のことながら)《書き手》個人にある。

夜は、取材のため外出。夕刻より雨だったが、ほろ酔い気分で店を出ると銀世界だった。
久し振りのお湿りだったが、雪とは……。
                  
夜は、《通信講座》の作品を読む。

▼00:22 kp(編集所)一瀬さんより、ゲラ使用の了解を得る。

続いて、当日記を書く。



2010年2月2日(火曜日)

14:00 インターネット・カフェにいく。3時間¥1,050で、ドリンク、マッサージ無料が
魅力である。
昼寝が出来る、メモも取れるし読書も出来る。
さて、今週の仕事は、舞台の企画書『クアトロ・ラガッツィ(天正少年使節団)』である。
先週、プロデュサーから「6日に帰国する」とmailが入っている。6日後に会いたい、
とのサインである。お尻に火がついた。
『百楽・5月号』の、《歴史探検・秀吉に切腹を命じられた茶匠・利休》も、資料整理を
しなければ。
〒。新橋演舞場の『つかこうへい・飛龍伝』の招待券(20日昼)が届いた。いつものことながら、松竹A氏に感謝感激。観劇したいと思いながらも、中々足が向かない。
今月も、背中を押してくれた。
▼20;30 作協・鈴木さんより、原稿送って来る。
さて、今日から、お世話になった先輩方のことを、この場を借りて回顧してみたくなった。

 【小川英さん】
師匠である。実は、(小川さんの師匠)池田一朗さんが、「おまえ、俺の代わりに小川と仕事をしてくれ」
と僕を(小川さんに)押し付けたのが発端だった。シナリオは書きたかったが、まだ《草野球》の現役だった。バットを含めた野球バッグを手に、大岡山の小川家に転がり込んだ。
最初の共作、『俺に賭けた奴ら(63・鈴木清順監督)』は、ユニークな構成だった。
ボクサー(和田浩治)が、15ラウンド戦う中で、《俺に賭けた奴ら・15人》を回想するのである。
「分かりにくい」という理由で構成は却下。平凡なボクサー映画になってしまった。

小川さんは、映画のシナリオを、(250枚でいいのに)平気で300枚,400枚も書いた。
オーバーした部分は、当然カットするのだが、かまわずに書いた。のちに、そんな小川さんは、「テレビ・ドラマの枠に入れない作家」と心配された。だが、1時間ものを、原稿用紙の裏に、小さな文字でビッシリと書いて、見事120枚に納めるといった離れ技を演じて、関係者を驚かせた。
とに角、(創作することも含めて)書くことが好きな人だった。最後に、《小説》を書いて
欲しかった。
池田さんに怒られるかも知れないが、遜色のない作品が誕生したかも知れない。
読みたかったな。
映画の共作は、他に】『午前零時の出獄』。



2010年2月3日(水曜日)

▼13:05 作協の久松さんが加わってくれて、当《日記》がUP。
昨夜まで、黒沢久子さんに迷惑を掛けてしまった。多難な船出ではある。
15,00 久し振りに、カミさんと公園を散歩。すっかり、足腰が弱くなった。
約6,000歩を歩く。3ヶ月ほどで、5`増えた体重を、今年中に元に戻したい。

▼21,05 新編集所になって最初の『百楽・4月号』、ゲラが届いた。
まだ、公になっていないので、紹介出来いのが残念。ゲラ・チェック。この時が、一番楽しい。

 【佐治乾さんのこと】
僕の回りには、《遊び人》が多い。佐治さんには、麻雀、花札を、みっちり仕込まれた。
敵わなかった。最初の共作『スパルタ教育(70・石原裕次郎)』では、1ヶ月箱根の旅館にこもったが、朝起きると、「花札1年」厭きると、「麻雀したいな」で、日活撮影所へ電話を掛けると、1時間もしない内に、企画者と監督Nさんが駆けつける。
そんなわけで、『スパルタ』は難航していた。「明日、裕ちゃんが、話を聞きにいく」
と連絡があって仰天した。夜逃げでもしますか? 半分マジで呟いた。
ぼけっとテレビで野球を観ていたら、ホームプレート上でクロスプレーがあった。
「アウトだ!」「セーフだ!」と。主審は「セーフ!」走者の足が早いと観ていた。
僕たちも、「アウトだ! タッチしてるぜ!」ミス・ジャッジを責めた。……だが、
翌朝のスポーツ紙が、「主審の目は正しかった!」と写真入りでジャッジが正しかったことを証明した。スパイクが、ミットより早くベースに触れていた。
「これでいこう!」佐治さんが叫んだ。こうして、裕次郎さんの役が、野球の主審と決まった。
翌日、遊びに裕次郎さんに、「主役の職業は、プロ野球の審判です」と伝えた。
裕次郎さんは、「野球は古いよ、サッカーにしよう」といい出した。40年まえに、これからはサッカーだ、と予言したのである。先見の明があった。
通常、主役の声は《天の声》、で決まる。しかし、「サッカーは、グランド中を走りますよ」
のひとことで、「やめた。野球でいい!」裕次郎さんは即座に自説を却下した。
すでに、体力的に無理はしたくなかったと思われた。
佐治さんとは、その年もう一作共作した。『日本最大の顔役(小林旭)』である。
そんな佐治さんに、「俺も(遊び)好きだが、おまえさんも好きだな」と呆れられた。
シナリオの共作というより、遊びの相手で、佐治さんの周りをウロウロしていたのかも知れない。



2010年2月4日(木曜日)


▼「めだか、飼いませんか?」姪からmailが入っていた。
昨年末、母親を亡くして、寂しいだろうという心づかいである。
昨年春まで、ペレットがいた。鳴かないし、マンションでも飼えた。
やはり、死なれると寂しかった。カミさんに《めだか》の話をすると、「だめ!」。やはり、生きものを飼うことに、こりたようだ。

【斉藤耕一さんのこと】
成城の、水の江邸からワン・ブロック離れた所の、芝生つきの広大な家に住んでいた。広いリビングには楽器が並び、気が向けばビブラフォンを弾いてくれた。カード・マジックといい、多才な人だった。当時は、裕次郎さん担当のスチールマンで、撮影現場に駆けつけて、勝手に演技をつけて、ロウ・アングルから(その方が、背が高く見えてカッコいい)シャッターを切った。
どんな理由で組むことになったのか、記憶にないが、『ユカ(63)』後である。斉藤作品の《笑い》の部分で、触れ合って来た。
それは、シナリオの中の《笑い》の部分であったり、作品そのものの《狙い(テーマ)》であったりした。飛躍した発想を、期待してくれた。
『馬鹿を承知の暴れん坊(68・映画名『拳銃野郎』・高橋英樹)』や、『金田一耕助の冒険(79・角川映画)』は、最初からコメディ狙いだった。
打ち合せのため、久し振りに集合すると、「元気だった?」と嬉しそうな顔をしてくれた。
ジャンジャンの舞台『日曜日の暗殺者(80)』では、コメディとミステリィを教えてくれた。『あ・あ直立猿人!(83)』は、クランクイン寸前に男性主役が急死して流れた。ひとのいい女性が、ふたりの男のプロポーズを断り切れずに結婚して、ひと月づつ岩手の越前高田と東京を忙しく往復して暮らすといったコメディである。
いまでも、(書いたシナリオの)映像が目に浮かぶ。
実現させてあげたかった。



2010年2月5日(金曜日)

今朝、日記を書いた後、通信講座の八代さんの▼を読んだ。予想を超えた《プロット=狙い》の出来ばえに、驚いた。
「(諦めずに)やれば出来るじゃないか!」といった感想である。
雑巾を絞るような作業(mailの交換)のたまもの、成果である。
いいシナリオになりそうだ。真夜中だったが、チェックして宅急便で送る。

【山崎巌さんのこと】
日活の先輩である。通称《ガンさん》。『渡り鳥シリーズ』等、年間15本ほどの作品がある。1時間に、30枚の原稿を書く。
青山の旅館で、隣に部屋をとって耳をすませていると、2分に1度、ビリッと音を立てて原稿用紙が破られる。1日3時間机に向かうとして、250枚のシナリオは3日もあれば楽に書きあげられる。(隣の部屋の)僕たちは、(気になって)呆れて仕事にならない。5日ほどのち、プロデューサーが(覗きに)来ると、「(完成しているにもかかわらず)半分出来た」といって半分しか見せない。残りの半分は、座布団の下である。僕たちと顔を見合わせると、ニッコリ、ひとのいい笑いを浮かべる。余った日にちは(通常、10日は入っているので)、映画を観たり、読書に充てる。ハヤカワ・ミステリィなどは、1時間でナナメ読みして読破する。
頭に入っていないのでは、というと、次作でちゃんとネタをいただいている。
後年、小説を書きはじめた山崎さんは、「中野、小説はいいぞ。
重箱の隅を掘じくる奴はひとりもいないぞ」と明るくいった。
そんな山崎さんが、横浜の関内の病院に入院すると、週に一度は見舞いに通った。「退院したら、中華街でラーメン食べよう!」が合言葉だった。
駄目だ、と知った日、駅とは反対の道を歩いていた。名も知らぬどぶ川を見下ろしながら、涙が切れなかった。それほど、心をひきつけた先輩のひとりだった。



2010年2月6日(土曜日)


午後、土日恒例の水道橋(JRA)までの(電車に乗っての)散歩。頭と足の体操である。
結果は、頭の方は、まだボケてはいないと答えが出た。
(医者の診察するより、信頼できる)安心というより、喜び。
このフロアーでは、いろんな人と出会っている。
現『H』編集長K氏とも、ここでのkeiba談議から始っている。見知らぬ人との出会いは、(共通の趣味と話題があれば)あたらしい発見があって、楽しい。
ついでに、ボケていない証拠を。明日の僕が買う目を記しておく。結果が出た後では、《後だしジャンケン》で、卑怯だから。
京都 11R 三連単BOX 3・6・12

▲23:40 作協の鈴木さんへ、『シナリオ・セミナー』の原稿を送る。

2,00まで、『百楽』の原稿。土日で書く習性で、月曜朝に▲で送る。

【家城巳代治監督のこと】
僕が、まだ高校生(55年ころ)で、大人のシナリオ同人誌(『シナリオ新人会』)でシナリオを書いていたころ、最初に読んでくれた映画人が、家城さんだった。
映画会社の原稿用紙のうらに、鉛筆で、小さな文字でポイントを書いて指摘し、最後に原稿用紙もくれた。眼鏡の奥の、やさしい瞳は習性忘れない。
原稿用紙は、しばらく僕の宝ものになっていた。
家城さんは、すでに『雲が流れる果てに(52)』や『胸から胸へ(55)』を撮っていた。そして、新藤兼人さんの脚本で、『姉妹(55)』を、《働く若者たち》を愛情深く描いていた。
次作の、『こぶしの花の咲くころ(56)』の撮影現場へ招いてくれた。主演は、中原ひとみんさ、野添ひとみさんだった。当時の、アイドルである。僕はその時、ふたりの苗字からひと文字づつもらって、勝手にペンネームを《中野》に決めた。
その後、『映画タイムス社(九段下)』のシナリオ発行をボランテァで手伝っていた時、「中野君、『ポチョムキン』を観にいきましょう」と誘ってくれた。お茶の水まで、歩いた。
恥ずかしいことだが、《ポチョムキン》がなんだか知らなかった。数人の映画人が、まるでひと目を避けるようにして、8oに観入った。あの石段を駈けあがるモンタージュには、圧倒された。シナリオの世界ではない。演出家の領域だ。
いま、エイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』が観たくなった。
家城さんを偲んで。



2010年2月7日(日曜日)

keibaは惜しかった。@A・・D着だった。首の差でも、的中しなければただの《紙切れ》である。
また、リベンジしよう。
テレビ放送終了後、企画書に手をつける。

▼22,00 集中講座の八代さんからmail 。
シナリオを快調に書いているとのことで、偉いな。

1週間、(関係者の方々のお蔭で)なんとか当日記を終えることが出来ました。
(仕事上の)完成した原稿もあれば、(途中で)ing のままのもありました。
いずれにしろ、いつも通りのマイペースの1週間でした。
日記を書くからとか、特別な企画だからといって、気負いはありません。ただ、日記を読み返して、《誤字》《脱字》が多いのに(われながら)驚きました。
1日の最後に書くわけですから、注意力が散漫になることはありますす。反省します。また、pc のセイにするつもりはありませんが、《文字化け》が激しくなって、s とd の後の母音がトブのです。どこへ飛んだか探して、修正するのがひと苦労です。

今日は、当時の、若手のライター志願者の《あこがれ》の的だった《S》さんのことを書きます。
例によって、日活から「おまえ、共作してこい」と派遣されて、胸躍らせて、S邸の玄関に立ちました。
「(後で聞いた話ですが)非行少年がきた」
といってSさんは驚かれたそうです。
日活ホテルにこもった時、「中野ちゃん、20台はすぐ終わるよ(勉強しなさい)」と婉曲に諭されました。
聞き流して、《罰》が当たったのがいまの僕の姿です。
氏との共作は、『大空に乾杯!(65・吉永小百合)』『逢いたくて逢いたくて(66・園まり』があります。

今日(8日・月)は、スーパーボウル(8,00より)です。
早起きして、ネット・カフェにいく予定です。3時間、マッサージ・チエァに背中を預けて観戦します。
『コルツ(AFC)』を応援しています。監督のフアンなのです。
ぜひいちど、NFL を観てください。ボール・ゲームの中では、一番面白いですよ。昔、俳優の川口浩さんが、自らユニフォームを着て面白さをアピールしましたが、普及しませんでした。あれから40年。やっと、日本でもフアンが定着しました。
というわけで、もう寝ます。

最後に、担当の黒沢久子さんへ、心からお礼申しあげます。
貴重な時間をさいていただき、ご親切なアドバイス、有難うございました。


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