2009年4月6日(月曜日)
高橋留美姐さんから引き継いでのリレー日記である。
姐さんは身近な犯罪のことを書かれていたが、何故か私は姐さんがチカン狩りの達人であることを知っているのだ。男性諸氏、みだりに姐さんのお尻に触ったりしてはいけない。まあ相手が誰であれ、チカンはいけないことではあるが。
チカンといえば、私も学生時代に新宿の映画館で痴漢に遭ったことがある。隣に座っているおっさんの手が私の膝から腿へ、そして股間へとそろそろと上って来るのである。
私もあのころは可愛かったからなあ。
とはいえそのときは迷った。
何しろこちらも男である。
「この人、チカンでーす!」
などと大声を上げるのもマヌケではないか。
結局最後までされるがままになっていたのだが、それも何だかなあとは未だに思っている。
満員電車の中では痴女にも遭ったことがある。
正直言ってこれは嬉しかった(笑)。私の手を握って自分の秘所に導いてくれ、同時に私の股間もイジってくれるのだ。その痴女、二十代後半か三十代初めぐらいの、なかなかの美人だった上、当時はまだ私も童貞だった。
痴漢は犯罪者だが、痴女は天使。
不公平な話ではあるが、それが真理というものかもしれない。
ところで唐突ではあるが、四年前に階段から落ちて左足を粉砕骨折、背骨を圧迫骨折して以来、私は殆ど仕事らしい仕事をしていないのである。仕事をしていないときの作家は無職だと、橋本治さんが何かの本に書かれていたが、それに従えばいまの私はやはり無職であるに違いない。音楽を聴きながらリクライニングベッドでウトウト居眠りするという、まるでご隠居さんのような日々を゜過ごしている。これでは勿論ライター志望者の方々のお役に立つような文章は書けっこない。
かくて今日からの一週間は単なる戯言が続きそうだが、その辺りどうかご容赦を。
2009年4月7日(火曜日)
かなり自発的に、情報というものを遮断している。
これは怪我をする前からそうなのである。
テレビは殆ど観ないし、雑誌の類も読まない。
理由は目をやられるから。
これでも怪我する四年前まではマイナーに売れていたのだ。
だから目を使うのは仕事するときだけでたくさんだったのである。
数年前女友達に薦められて映画「ピンポン」を観に行ったときも、窪塚洋介さんという俳優さんの顔を知らなかったため、中盤ぐらいまで誰が主人公なのか全然わからなかった。これほどピュアな観客が他にいただろうか。
しかしそれでも必要な情報というものは不思議とどこからか入ってくるもので、一ヶ月ほど前に「若者たち」という三部作映画とテレビドラマのDVDを買ってしまった。私がまだ四歳か五歳のときの作品である。
買った理由は、佐藤オリエさんが出演しているから。いまの私のマイブームは佐藤オリエさんなのだ。
佐藤オリエさんを最初に好きになったのは、松岡錠司監督のデビュー作「バタアシ金魚」を観てからだった。あの映画の中でまだ初々しい主演の二人を脇でしっかり支えていたのは、天才大宝智子さんと佐藤オリエさんその人ではなかったか。
そしていまその佐藤オリエさんに惹かれ、「若者たち」を購入して、少しずつ楽しみに観ているわけだが、やはり若き日の佐藤オリエさんもいい。「バタアシ金魚」のときもそうだったが、自然なコケットリーがを備えていらっしゃるのである。共演の田中邦衛さん、橋本功さん、山本圭さんたちもさすがにいいお芝居をしていらっしゃる。
しかし何より驚いたのは、ドラマ自体の充実度の高さだ。格差社会や学歴社会、環境問題などがテーマとして取り上げられているのだが、これ充分現代にも通じる、というより現代そのものなのである。問題は何一つ解決されておらず、寧ろさらにひどくなっているとしか思えないのだ。
脚本は山内久さん、大野靖子さん、立原りゅうさん、布施博一さんなど多士済々。
優れた作家には一種の予知能力じみたものが備わっているのではないだろうか。
実は私も9.11テロの前に、某国のテロリストが渋谷に爆弾を仕掛け、それを四人の女子高生たちがアルバイトで探しに行くという深夜ドラマを書いたことがあるのだ。
当時はアイルランドの音楽にハマっていて、IRAに関する本なども読み、そのうち日本も絶対戦争に巻き込まれるという意識からそういうものが書けたわけだが、あ、これあからさまに自慢話だよね。許して(笑)。
2009年4月8日(水曜日)
まったく「遺伝」ほど厄介なものはない。
今日はかかりつけの神経科クリニックに行って、いつも通り抗鬱剤と睡眠薬をもらってきた。
不眠症は高校の頃からずっとだが、鬱病の方は完治していたのが、怪我のおかげで再発してしまったのである。
私が服用している睡眠薬の量はハンパな量ではない。普通の人が飲んだら間違いなく人事不省に陥る。ところが私の場合、それだけ飲んでも全く眠れない夜もあるのである。
「眠れないんなら仕事すればいいじゃないか」とも言われるが、不眠のぼんやりしたアタマではとても仕事など出来ないのだ。
私の場合、鬱病も不眠症も、そして鼻が低いのも父方の「遺伝」である。
ついでに言えば、若ハゲと糖尿は母方の「遺伝」。
どうも私の場合、悪いところばかり両親から受け継いでしまったような気がしてならないのだ。
無理していいところを探せば、母方から受け継いだ足の長さである。
これで父方の短足まで受け継いでしまっていたら、もうとっくに自殺していたかもしれない。
で、いったい何が言いたいのか、というとですね。
思いっきり話が飛ぶようだが、美しい顔をご両親から受け継いだ人には、その折角のご自分の美しさをしっかり引き受けてほしいということなのだ。
ここから映画の話になるのだが、どうもここ二十年ぐらい、日本でもアメリカでも美男美女が汚れ役ばかりやりたがっているような気がしてならないのである。
たとえばブラピ。「ファイト・クラブ」のあの役なんかは、決してブラピのような二枚目がやる役ではない。もっと顔面の不自由な役者さんに任せておけばそれで済むのだ。
映画とは「夢」ではないか。
ゲイリー・クーパーのような美男とイングリット・バーグマンのような美女が銀幕の中で愛し合ったりするからこそ、お客さんもウットリいい気持ちで「夢」に浸れるのである。
私の言っていることは古いだろうか。
しかし美男美女が美男美女のままで愛を交わすメロドラマやラブストーリーがなくなったとしたら、そのとき映画は「夢」ではなくなってしまうような気がする。少なくとも私自身は、「夢」でなくなった映画なんか観たくもない。
だからどうか美男美女の役者さん方、ご先祖様からの「遺伝」を大切にしてください。
2009年4月9日(木曜日)
折に触れ思い出すのは俊藤浩滋さんのことである。
言わずと知れた名プロデューサー、仁侠映画のドンだ。
私は『修羅の群れ』という作品で俊藤さんとご一緒させていただき、いまでも俊藤さんの最後の弟子を自認している。勿論不肖の弟子ではあるが。
俊藤さんがよく口にされていた言葉に、「そない不細工な話があるかい」というのがある。つまりスジの通らないことが許せないのだ。
俊藤さんご自身、一本太いスジの通った方だった。私はあの仕事のとき何遍も京都の俊藤さん邸にお邪魔し、仁侠映画の脚本の書き方を一から教わったのだが、私のようなチンピラに対しても俊藤さんは実にスジの通った付き合い方をしてくださった。ホテルをとってくださり、打ち合わせのあとには食事に連れて行ってくださり、そして帰るときにはご自分の運転で京都駅まで送ってくださり。
当時八十歳を越え、癌を患われていたにも関わらず、だ。
「いまは我慢せなあかんで。あんたぐらい書けるもんはおらへん」とも俊藤さんはよく言ってくださった。この台詞は四年前怪我する前までの、私の心の支えだった。
『修羅の群れ』の撮影は厳暑の夏に行われた。あの夏は本当に健康な人間でもぶっ倒れそうな暑さだった。だが俊藤さんは現場でも休まなかった。殆どの現場で、辻裕之監督とともに指揮に当たっていたのである。どんどんお顔の色が悪くなっていくのが傍目にもわかった。そしてクランクアップ後間もなく俊藤さんは他界されてしまわれた。私は、俊藤さんは映画と心中したのだと思っている。
俊藤さんのことを「ヤクザだろ」などという人もいるが、決してそうではない。俊藤さんほど映画を愛した映画人はそうはいないはずである。私自身を振り返ってみても、本当の意味で映画に命を賭けることなどとても出来ない。だがそれが出来てこその映画人だとも思う。
この文章を読んでくださっているあなたに問う。
あなたは映画と心中することが出来るか。
それが出来ないならば、安易に映画の世界に足を突っ込まない方がよろしい。
2009年4月10日(金曜日)
昨日に引き続き、俊藤さんの話である。
ご一緒に食事しているとき、こうお訊ねしたことがある。
「俊藤さんが映画の世界に入ろうと思ったきっかけの映画は何ですか?」
俊藤さんは即答した。
「『現金に手を出すな』やな」
かなわないなあと内心私は舌を巻いた。
俊藤さんはリアルタイムで公開時にあの名画をちゃんと観ていらっしゃるのだ。
ブライアン・デ・パルマの『ファントム・オブ・パラダイス』なんかを観て興奮し、脚本家を目指した私なんかとは育ちが違うのである。
私ももう三十年か四十年早く生まれればよかった。
我妻正義さんからも「石川、三十年前だったら蔵建ってるよな」なんて言われちゃったし。
あ、俊藤さんとの食事の話、まだ続きます。
いろいろ映画の話をしていて、それが『ザ・ヤクザ』に及んだとき、俊藤さんは突然不機嫌になられた。
『ザ・ヤクザ』は俊藤さんプロデュース、シドニー・ポラック監督、高倉健さんとロバート・ミッチャム主演の日米合作ヤクザ映画なのだが、どうやらポール・シュレイダーが執筆して俊藤さんに送ってきた名シナリオを、シドニー・ポラックが勝手に改悪してしまったらしいのである。俊藤さんはこうおっしゃっていた。
「旦那が戦争行ってる最中に女房が米兵とデキてしまうなんて、そない不細工な話があるかいっ!」
言われてみればその通りなのだが、私は困った。実は私、『ザ・ヤクザ』という映画が大好きなのである。終盤、高倉健さんに対する義理を果たすため、ロバート・ミッチャムが小指を落とすシーンなどには、ムンムンするような男の色気が漂っていた。
キャスティングの勝利なのである。高倉健さんのような大物俳優の相手役には、やはりロバート・ミッチャムぐらいの貫禄のある役者さんを持ってこなければダメなのだ。
そこで私はこう言った。
「『ザ・ヤクザ』は『ブラック・レイン』なんかよりずっと名画ですよ。『ブラック・レイン』はキャスティングがなってないでしょう」
『ブラック・レイン』。松田優作さんの大事な遺作ではあるけれども、私はあの映画が大嫌いなのである。俊藤さんに申し上げた通り、いちばんの問題はキャスティングだ。
高倉健さん、松田優作さん、若山富三郎さんという豪華きわまりない日本側のキャスティングに比べ、アメリカ側はマイケル・ダグラスとアンディ・ガルシア。これではアメリカ側のキャスティングが貧弱すぎるではないか。ラスト、松田優作さんとマイケル・ダグラスが素手で対決する場面など、優作さんが勝って当たり前である。マイケル・ダグラスが勝つなどとても信じられない。日本側が高倉健さんと松田優作さんならば、マイケル・ダグラスの役は当時まだ存命だったマーロン・ブランドかポール・ニューマン、あるいはクリント・イーストウッド辺りの大物を持ってこなければ、全く釣り合いがとれないのだ。
私の言葉に俊藤さんも、
「そう言えば『ブラック・レイン』も不細工な映画やったなあ」
と、ご機嫌を直してくださった。
俊藤さんとは次の仕事の話も進んでいたし、まだまだ亡くなられてなどほしくなかった。
ぜひお願いしたいこともあったのである。
それはシドニー・ポラックが改悪する前の『ザ・ヤクザ』のオリジナル・シナリオを読ませていただきたかったということだ。
日本通のポール・シュレイダーがぜひ映画化したいと俊藤さんに送ってきた幻のシナリオ。
それはいったいどんな名シナリオだったのだろうか?
2009年4月11日(土曜日)
今日は妻と娘と一緒に焼肉を食べに行き、ついでにカラオケに寄ってきた。
娘はこの四月で中三になったばかりである。
誰に似たのか、まだ乳母車に乗っていたときからやたらとノリのいい娘で、初めてディズニーランドに連れて行ってやったときなど、まだろくに言葉も喋れなかったのに、タクシーが到着した途端「うわーい、うれしいよお!」と叫んで、私と妻とタクシーの運転手さんを驚かせた。
いまは学校でミュージカル部に所属していて、もうすぐ学園祭での公演がある。去年の公演では、舞台上で終始楽しそうにニコニコ笑っていて、怪我で落ち込んでいた私を元気づけてくれた。
人間には二種類ある。
人生を楽しむ才能を持つ人間と、それを持たない人間だ。
恐らく娘は前者で私は後者なのだろう。
と、これ以上親バカめいた話を続けていても仕方ないので、今日もまた俊藤さんの話である。
時は二十五年ばかり遡って、私の学生時代。私は自主映画のサークルに所属していて、友人の撮った映画が何かのコンクールに出されたことがあった。
なかなかの佳作だったのだが、審査委員だった黒沢清監督はその作品に対してこうコメントした。
「海のシーンを撮るなら、そこが海である必然性がなければならない」
確かにその作品ではクライマックスが海だったのだが、海でなければならない必然性などまるでなかったのである。
黒沢清監督のその言葉は私の中にもずっとこびりついていて、『修羅の群れ』の脚本を書いたときも、主人公である親分が子分の一人を涙を飲んで絶縁するという一つのヤマ場を、組事務所の中に設定した。それがリアリズムだと思ったからだ。だがその初稿をお読みになった俊藤さんは開口一番こうおっしゃったのである。
「このシーンは海辺の岸壁でいこ」
リアリズムも何もあったものではない。海辺にする必然性などどこを探してもありはしないのだ。
だが私はそこでようやく悟った。
お客さんを喜ばせるのは、リアリズムや必然性などではなく、絵そのものの迫力だということを。そして何よりも先にお客さんを喜ばせることを考えるのがメジャーの映画人なのである。実際そのシーンはいいシーンになった。
確かにシナリオで必然性なくシーンを海辺などに設定したら、そのシナリオはコンクールには落ちるだろう。
しかしコンクールに入選したりヒョーロン家にホメられたりするシナリオと、実際に映画館でお客さんを喜ばせることの出来るシナリオとは別物なのだ。
このことはこれからデビューを狙っている新人の方々、胸にとどめておいて損はないと思う。
私が俊藤さんから教わったことは本当に大きかった。
それを少しでも新人の方々にお伝え出来たとすれば、私がこのリレー日記を引き継いだことも無駄ではなかったような気がするのである。
2009年4月12日(日曜日)
さて今日で私の担当は終わりである。
少しは日記らしいことも書きたかったのだが、何しろぼーっと音楽を聴いているだけの毎日である。音楽評を書いても仕方がない。「砂漠のブルース」はいい!
なんて言ったって知らないでしょ、ワールド・ミュージックに興味のない人は。
暇である。
怪我をする前には常時三本ぐらいの仕事を並行してやっているのが普通だったのだが、それがぷっつりと途切れた。原因はわかっている。頼まれた仕事を中途で投げ出したり、折角の仕事の依頼を断るようなことが何度も何度も続いたからだ。理由は主に左足と背骨の骨折後の体力不足の問題なのだが。かといって、そんな甘えが通じる世界でもない。
果たして私はシナリオライターに戻れるだろうか。
実は戻れなくてもかまわないと私は心ひそかに思っているのだが。
とにかく企画書地獄はもう真っ平御免である。
短時間で散々企画書を書きまくってきたおかげで、てきめんに目をやられてしまったし。かといって私は企画書を他人任せにする気にもなれないのだ。企画書のギャランティはせいぜい三万から五万。それが局なり制作会社なりの会議を通って、その企画書に基づいたシナリオを別のライターが書くというのでは、あまりにそのライターさん、濡れ手で粟の世界にどっぷり首まで浸かりすぎではないか。
シナリオのギャランティは百万を優に越えるのだから。企画書の内容を一緒に考えてくれるならともかく、ストーリー作りを新人に丸投げし、あとのフォローもしないというのは明らかに卑怯である。そんな企画書文化がまだ延々とまかり通るようであれば、私はもう体力的にシナリオを書き続けることは出来ない。
だがいつまでも遊んでいるわけにもいかないし、それで昨年の十月から小説の講座に通い始めた。結局は物を書くことから離れられないのである。物書きというのは業が深いな、とつくづく思う。しかし道を同じくする仲間も増えたし、当分は小説家への道を進んでいくつもりである。
私の理想とする作家はサド、カフカ、ミッキー・スピレインの三人である。サドは決して小説が上手いわけではない。カフカは作品を書いている途中で筆を投げ出す天才だし、ミッキー・スピレインときたらただただセックスと暴力のオンパレードだ。しかし私にはこの三人 他の作家に比して、自分の書きたいテーマ、自分にしか書けないテーマを余りにも明確かつ過剰に持っていたのではないかと感じられるのである。出来ることなら私もそういう作家になりたい。あくまでも世界を見つめる自分固有の視点を持っていてこその作家ではないだろうか。それは当然シナリオライターにも通じるはずなのだが。たとえば私が神様と崇めるオーソン・ウェルズや戦後の小津安二郎も、そういう作家たちの系列に連なっていたのではないだろうか。
ではではこれで。
一週間駄文につき合っていただき、本当に有り難うございました!
新人の方々の文運を心よりお祈りいたします