2009年5月26日(火曜日)
8時起床。
昨日の夜は、り久しぶりに河原町方面にでて石塀小路で飲む。二年ほど前に撮影で力を貸してもらいそれから顔をだしていないお店なので、無沙汰を詫びつつ飲んだ。少し飲み過ぎた。タクシーで帰宅してから、録画してあった山田洋次監督の「学校」と「必殺仕事人2009」を観る。観終ってそのままソファーで寝てしまった。
朝食は冷や飯に味噌汁をぶっかけて食べた。昔テレビでみた「木枯し紋次郎」や市川昆監督の「股旅」を思い出した。渡世人はよくぶっかけ飯を食べていたからだ。それも凄まじい速度でたいらげる。ぶっかけ飯のシーンは、食べるものがあって本当によかった、食べられているうちは俺たちはまだ生きている、という感じがよくでていた。我々も渡世人である。朝はぶっかけ飯に限る。
飯を食ってから、風呂に入る。風呂のなかで横光利一の「比叡」と「厨房日記」を読む。風呂をあがってからプロットの続きを書き始める。出だしだけは何とか書きあげるがこの先が長くなりそうな予感がする。何としても今日中には書き上げないといけない。ウーンと唸ってばかりいるうちに昼になり、家にあった蕎麦を茹でて食べる。このままいくと家に貯蔵されている食べ物はすべて食い尽くす勢いだ。蕎麦を食べていたら証券会社と新聞の勧誘がくる。証券会社は冷たく断ったが、新聞は一週間だけ無料でくれるというので、それなら朝日小学生新聞をいれてほしいと頼む。家に子供はいないが以前からこの小学生新聞というのには興味があったので一週間だけ読むことにした。小学生に興味があるのは次の理由からである。
去年のことだが、川崎のチネチッタという映画館の企画で小学生の作文から短編映画を創るという企画があり、そこで一番になった加藤光君という小学四年生の子供がいて、その表彰式で加藤君と会った。加藤君の作文は、学校の近くの公園にある銅像がある時間になると動き出すという内容で、タイトルは「おじさん公園のひみつ」というものだった。その企画は、小学生の作文を大人の我々が脚本化して映画化するというものだったが、それではどうしても大人の感覚が入ってしまい、子供が考えた本来の無邪気な感じがでない。それで加藤君に「君、脚本書いてみない。教えるから」と言うと、「はい、書いてみます」という答えが返ってきた。それから一時間ほど小学生四年生を相手に簡単シナリオ講座をやった。以下はその時のやりとり
林 「加藤君、シナリオってわかる?」
加藤君 「わかりません」
林 「そうだろうね。まずシナリオというのは映画をつくるための設計図だ」
加藤君 「・・・・(沈黙)」
林 「何のことかわかんないね?」
加藤君 「なんとなくしか・・・・」
林 「じゃ、いまのことは忘れよう。もっと具体的に言うね。君は何のアニメが
好き?」
加藤君 「ドラえもんです」
林 「そうか、それじゃドラえもんで説明するね」
加藤君 「はい」
林 「君の作文は、場所とセリフと物語がいっぺんに書かれているね。でも
シナリオはその作文の中から、まず場所を別けないといけないんだ。
例えば、ドラえもんとのびたが部屋にいるね。これは、のびたの部屋だ。
次に、のびたが外に言ってジャイアンに出会う、これは道だ。それから、
のびたが小学校に行って、しずかちゃんに会うね、これは小学校だ。
こんなふうに君の書いた作文を、まず場所で別けてごらん」
加藤君 「やってみます・・・できたらメールで送ります」
それから一週間後に、加藤君から見事にシーン別けされた作文がメールで届いた。面白くなってきたので、メールでの通信シナリオ講座を続けた。次の段階はもう少し難しい、次はセリフとト書きに作文を別ける。セリフとは人が話す言葉全部のことで、ト書きとは動作全部のことだ。これはかなり難しいので、参考にシナリオを添付するから、それを読んで自分で考えてみて、と僕はメールして、その前の年に僕が監督したNHK教育テレビの「夕陽ケ丘の探偵団」のシナリオを送った。内容は少年探偵団ものだし尺も30分と短いので、小学生が読むには飽きないと思ったからだ。それから一ヶ月、加藤君からは何の連絡もなかった。その企画の撮影もそろそろ迫りだしたので、こちらで脚本を用意しないと駄目か、やはり小学生には難しすぎたか、と思いつつ脚本準備に入ろうとしていた頃に、加藤君からメールが届いた。メールの件名には「できました」と書かれていた。そのメールを開いて添付されていた文章を読んだ。それは間違いなくシナリオだった。そして僕たちはそのシナリオでそのまま短編を撮った。多少辻褄のあわないところはあったが、わざとそこを直さずに撮った。辻褄とは大人たちのためにあるもので、子供の想像力では辻褄はあっている、と思ったからだ。撮影中も加藤君を脚本家として現場によんで、撮影スケジュールの関係で、どうしても変更しなくてはならない箇所は、全て脚本家の加藤君と話あって変更した。つまり僕たちは小学四年生の脚本家を、ちゃんとした脚本家として扱い、まるで溝口健二と依田義賢のような関係で現場をすすめた。今回の監督はもちろん溝口の百倍は落ちるが、例えとしてはそうである。その映画は完成し、世界で始めて小学四年生が書いた脚本の映画化作品となった。その取材で加藤君は朝日小学生新聞に載ったというので、その新聞をかねてから読んでみたいと思っていたからだ。話しは大変長くなったが、そんなわけで僕は小学生の能力と可能性にとても興味がある。加藤君とはその後もメールでのやりとりは続いている。最近また新作を書いたらしいのでぜひ読んでみたいと思っている。でも彼の将来の夢は「声優」だそうだ。
夕食にカレーライスをつくって食べる。ビール一缶飲む。食事をしてから寝てしまう。深夜に起きて慌ててプロットの続きを書いている。家から出てないので、日記が過去の話ばかりで面白くなくて恐縮である。
2009年5月27日(水曜日)
深夜2時起床
夕食を食べてから眠ってしまい、深夜2時に慌てて起きて、プロットの続きを書く。徐々に物語は進行してきたが、この先かなり長くなりそうな感じ。勢いをつけようと思って途中からウィスキーの水割りを飲みだすが、少しずつ酔いはじめ、原稿がきりがいいところで小休止して、傍らにあった彫りかけの仏像の頭を彫りだす。酔っているので手元がおぼつかないが、彫りはじめるととまらない。気にいらなかった唇を削ぎ落とし新しい唇を彫る。そうやって気にいらない箇所を落としては彫っていると、仏像の頭は次第に小さくなっていき、首も前に傾いできた。手にとってしげしげと眺めると、この頭は仏なのかそれとも誰かの顔なのかサッパリわからない。仏像彫刻教室に通い始めたばかりなので、先生の見本のようにいくわけもなく、彫刻刀の恐ろしいほどの切れ味を楽しみながら彫り続けたら、本当に誰の頭なのかわからないものになった。僕と仏の距離はかなり遠い。
朝6時から9時までまた寝て、起きて朝食を食べた。ごはんに納豆をかけたものに味噌汁。それからまた寝て12時に起きて、また慌ててプロットを書き出したがなかなかすすまないので、気分を変えるために家を出て大学に行く。休校の大学の研究室でプロットの続きを書く。だんだん面白いのかどうかもわからなくなってきた。たぶん面白くないのだろう。昔、浅草の三社祭で神輿を担いだことがあるが、プロットを書くというのはあの感覚と同じだ。担いでいる間は辛くて一刻も早く降ろしたいのに、担がなくなると今度はむしょうに担ぎたくてしょうがなくなる、あの感じ。プロットだけじゃなくて、映画を創るということも同じだ。創っている時は辛くてしょうがないのに、創り終わるとその辛さをすっかり忘れてまた創りたくなる。そして創り始めては担いだ神輿の重さを思い出すが、担ぎ終わるまではやめられない。映画を創っている最中はいつもこれで終わりにしようと思うのだが、創り終わってしばらくたつとまた映画が創りたくてしょうがなくなる。映画は魔物である。
プロットを書いている最中にもいろんなことがおこる。川崎のスタジオに置いてあった1959年の僕の車が姿を消しているという報告があり大騒ぎとなった。盗難の可能性はあるが、一人思い当たる人物がいたので、その人物に電話したが繋がらない。かなりキツイ言葉を留守電にいれたら、電話が返ってきた。勝手に車を移動させて自分のところにあるという。人のものを黙って移動させる行為を「泥棒」と言うんだ、と伝えてかなり叱った。当人は反省しているようだったので許した。その気分を害する一件から、次々と面倒臭い用件の電話がなりだして、それを処理した。そんなことをしているうちに瞬く間に時間が過ぎてしまった。プロットの続きをやろうと思ったが、このまま続けても活路はみいだせないと思って、贔屓にしている学生の一人を呼んで、これまでのプロットを読ませて、この先どうしたら面白くなるかを話しあった。その学生はいくつかのアイディアを提案してくれ、僕のアイディアと合体させたりして、ああでもないこうでもないと話し合ってるうちに、次第に面白そうな物語になってきた感じがした。そのアイディアをいれてさあ書き出そうと思っていると、5時半に病院の予約が入っていたことを思い出し、チャリで病院に向かう。
病院では血液検査の結果がでていた。結果は、肝臓の数値が若干高いのと、中性脂肪の数値が高かっただけで、あとはどこも異常なしだった。癌検査もシロだった。医者から中性脂肪を減らすためにあと3キロ痩せるようにいわれた。
それには糖質のあるものを食べないことだといわれ、糖質のあるものとは何です?
と質問したら、お米、パン、麺類を食べないようにと言われた。僕はお米が大好きなので、米を食わなかったら生きてる気がしません、それにパンと麺類を食べないなら一体何を食べるのですか?
と質問したら、野菜と肉を食え、と言われた。そんな欧米人のような食事ができるわけないだろと思ったが、なるべく控えますと嘘を言って病院をあとにした。病院の先生は本当に不思議なことを言う。煙草をやめろ、酒をやめろ、からはじまり今度はとうとう米を食うなまで言いだすとは。医者の言うとおりにしていたら、身体は健康になるかもしれないが心が病気になってしまう。
作家の中島梓さんが膵臓癌で死亡したニュースをきいた。58歳だったらしい。僕はあと6年で58歳だ。最近50代が癌で続々と亡くなるのはどうしてなんだろう。僕もいつ死んでもおかしくない年になんだなと実感した。
夜の7時から、今年の7月中旬にオープンさせる「京友禅お化け屋敷」の打ち合わせに行った。これはK染工という古い友禅染の会社が、今は名前を変えて友禅のアロハシャツを作ったらそれが大当たりしたらしく、自分たちの膨大な顧客を相手にこの夏に工場の敷地内にお化け屋敷をオープンさせる企画があり、友人から紹介された僕がその企画に一枚かんでしまったものだ。最初はアイディアだけ提案するはずだったのが、あれよあれよと巻き込まれてしまい、そのお化け屋敷自体を監修し、設営まで任されてしまった。何となく会っているうちに後にひけなくなり、うちの美術スタッフ総出でとりかかることになってしまった。どうせやるなら素晴らしいものをと、いつもの悪い癖がではじめて、たくさんの有能な映画のプロたちを巻き込んでしまった。だから後にひけないのだ。予算は限りなく低いが、志だけは高いといういつものパターンだが、開設まであと1ケ月半、ほんとに時間がない。なんで僕はいつも安請合いばかりしてしまうのかという後悔先に立たず、とにかくオープンに向けて突進する。今回の安請け合いの理由が、そのK染工が僕の生家の隣の工場だったからだが、この仕事
(といってもお金にはならない)
を引き受けてよかったのかさえ、今の僕にはわからない。でもやるといった以上は必ずオープンさせてみるつもりだ。
その打ち合せが11時までかかり、帰宅して今はまたプロットを書いている。日中にプロットの出だしだけを先方に送ったが返事がない。たぶん相当待たされた挙句に送られてきたのが最初の部分だけだったので、堪忍袋の緒がきれてしまったのだろう。こうして一つずつ大切な仕事を失っていく。お化け屋敷などやってる場合ではないのは自分が一番知っている。ああ、恨めしや・・・。
明日は朝の9時から大学でゼミ授業を担当する。それから大学院生の指導と、学科長会議、その後に古い知人との飲み会がある。明日はたぶん忙しいな。
この大不況の時代に仕事があるということはありがたいことだ。文句をいうと罰があたるぞ。でも本業のプロットを書かないと・・・・。
2009年5月28日(木曜日)
5月28日(木) 7:30起床
朝起きて、ご飯に納豆卵をぶっかけて食べてから大学にでかける。先日の日記から書いている大学というのは、京都にある京都造形芸術大学というところだ。
七年前から毎年半年間だけ務めていたが、2年前に映画学科を新設してくれと大学側に頼まれて、これから映画を創ることはあっても、学科を創ることは一生に一度の経験だろうと思って引き受けた。学科の教員メンバーは全て映画の現役のプロでいこうと、いろんな人に呼びかけて毎週京都に通ってきてもらっている。学科メンバーは、僕、高橋伴明監督、東陽一監督、イ・チャンドン監督、山本起也監督、福岡芳穂監督、撮影監督の小川真司さん、美術監督の木村威夫さん、美術装飾の嵩村裕司さん、録音の浦田和治さん、俳優を教えるのは松尾貴志さん、川津祐介さん、水上竜士さん、など全員現場の第一線で活躍している現役で、このメンバーが休講することなく毎週京都に集結しているのはある意味奇跡のような状態である。外見は大学であるが中身はまるで撮影所で、映画各部所のプロが学生たちと一緒になって映画を創ろうとしている。去年の夏も大学のスタジオを使って木村威夫監督の新作「黄金花」を、原田芳雄さん、松坂慶子さん、長門裕之さんなど早々たる俳優陣をおよびして学生とともに撮影した。今年の夏は、高橋伴明監督が4回生の和間千尋の脚本を学内で撮影する。これらの映画運動を僕たちは「北白川派映画運動」とよんでいて、毎年一本ずつ大学内で一般劇場で公開する映画を製作するつもりである。去年撮った「黄金花」は今年の秋に公開される。
9時から12時まで2回生の映画制作セミの授業。年間をとおして学生の短編映画を各ゼミが制作するという授業で、僕のゼミは何本かに絞り込んだプロットの箱書きの段階になっている。他のゼミはすでに脚本段階に入っているようだが、僕のゼミのすすみは若干遅いのが気になるが、ここでちゃんとしておかないと映画にしたときに甘いものになるので、ガンガン激をとばして授業をすすめる。今時の若者は・・・とよく大人たちは悪く言うが、僕はまったくそう思っていない。反対に、今時の若者は・・・とてもよい、と思っている。うちの学生たちの特色かもしれないが、僕の10代のころよりよほどしっかりしていて現場でもかなりよくやる。2ケ月ほど前にある短編映画を撮影したが、この現場はあえて映画のプロを入れず、撮影監督の長田勇市チームをのぞいて全て学生でスタッフを編成したが、中途半端なプロで編成するよりよっぽど現場が順調にすすんだ。こういった小さい映画で、技術パートは勿論プロが必要だが、その他のパート、例えば制作部や演出部にプロが必要なのかは未だ多いに疑問である。僕はもともと在野からきた映画監督なので、いまだに映画のシステムというものに慣れない。黄金期の日本映画の撮影所システムというのはとてもよく理解できるが、すべてフリーのスタッフとなった現在は、そのシステムの悪い部分だけが踏襲されているように思えてならない。脚本料、監督料の安さの伝統もさることながら、映画とはこうやって作られるべきだという窮屈な感覚は、本当の撮影所経験者でないものたちが間違って伝えきいた、かつての撮影所システムの悪霊がうみだしているとしか思えない。本来の撮影所システムは、もっと自由な創作の場であり、それぞれのプロの人間としての尊厳を守ってきたのではない勝手に思うのは、これも撮影所経験者でない私の勝手な幻想だろうか。しかし、そんな幻想に基づいて映画学科はすすんでいる。
昼休みに、別の学生にプロットの相談をして、御礼にラーメンをご馳走する。
この学生はトランプマジックがとてもうまいので、その技と用語を教えてもらった。プロットに活用するつもりである。午後は授業がないので、この日記を書きつつ、またプロット作業を続ける。先方からは何の連絡もないので、すでにこのプロットは書き続けても意味をなさないものになる可能性があるが、書き出してしまったので、とにかく最後まで書くつもりだ。
研究室のソファーで30分ほど仮眠する。夕方になると仮眠するか銭湯にいくのが大好きで、鞄の中にはいつもタオルと石鹸が入っている。京都は街のいたるところに銭湯があり、どの銭湯も普通の湯船に加えて、サウナ、水風呂、電気ブロがついている。電気ブロとは湯船の中に電気が通っているもので、最初入ったときには心臓がとまると思ったが、その後は完全に癖になった。いろんな銭湯の電気風呂にはいった。そのうちもっとも強力な電気のところじゃないと満足できなくなってしまって、今は最強の電流の銭湯に通っている。電気ブロと同じくはまったのが水風呂で、これも相当冷たい水でないと満足できない。そのうち本当に心臓がとまるかもしれない。五十歳になるまで、風呂にゆっくりつかる習慣がなく、温泉に行っても何を楽しめばいいのかさっぱりわからなかったが、ここ数年は銭湯や温泉が好きだという人の気持ちがよくわかる。やっと人間に近づいてきたということか。
17時から大学で講義があり、何の発言もせずにジッと我慢の子。それから四条大宮の小料理屋にいった。「必殺仕事人2009」で見事監督デビューを果たした井上くんのお祝い。お祝いといっても僕と井上くんと局プロのSくんとの三人の会。Sくんは十六年ぶりの再会で、僕がかなり昔に朝日放送で「熱闘甲子園」と言う番組で監督をしていた頃に新入社員として局に入ってきた青年で、久しぶりに会ったかつての青年は容貌は変らないが、地位はとても偉くなっていた。
でも中身は昔と変らない。その店を閉店までいて、「バー探偵」に移動して深夜4時まで飲んだ。
2009年5月29日(金曜日)
5月29日 10時起床
昨夜は楽しくて飲みすぎた。焼酎だけを飲み続けたが、どれほど飲んだのか自分でもわからない。最後のほうは自分でも何を云っているのかわからず、へそ曲りの虫が現れて批判的なことばかり喋っていたように思う。本当に酒は怖い。
帰宅して5時に寝て10時に起きた。起きてから残り物のカレーライスを食べてから大学へ。大学に行く途中でまた腹がへり冷しうどんを食べる。大学に着いても二日酔いが酷くて仕事にならない。昨夜の友人たちに侘びの電話をいれる。
気持ち悪いのでソファーで横になる。
少し眠ったら金髪の美女におこされる。それは夢ではなく僕の助手のハンガリー人のビクトリアだった。ビクトリアは二ヶ月ほど前に突然大学に現れて僕の助手にしてくれと頼んだ。今まで一度も会ったことのない女性なので、自分の身元を証明するものを持って来週またおいでと言ったら、その通りにまたやってきた。今までは立命館大学の国際学部に通っていたらしく、ビクトリアが持参した成績表はすべてがAだった。立命館も文化庁の奨学金で通っていたらしく、いわば日本国が招聘した国費留学生だった。そんなにレベルの高い女性がどうして僕の助手をやりたいのか?
と尋ねたら、僕の映画を観たからと答えた。突然現れた謎の美女にかなりとまどったが、真面目そうな感じだったので、助手に採用してうちの大学にも通うことをすすめた。それから彼女は毎週休まず授業にきている。金髪の美女なので彼女がキャンパスにいると男子学生が落ち着かない。彼女を見てこける奴や、いきなり話しかけるやつ、だらしなく笑うやつもいて、男がいかに愚かな動物なのかがありありとわかっておもしろい。斯く云う僕も何かと彼女に親切にしてしまうのは、それと同じ理由なのか。でも彼女はとても謙虚で真面目なので、ついつい力をかしてしまう。見た目はどうみても北欧の諜報機関員なので、一緒にいると自分が探偵になって彼女の秘密を探っているような気がする。そんなこんなで二ヶ月前にはまったく知らなかった金髪美女が僕の助手となり、今ではすっかり大学にも馴染んでいる。人の出会いは本当に不思議だ。
4時に大学の空間演出デザイン学科学科長の椿昇氏に会いに行く。心斎橋大丸のショーウィンドウのディスプレイをあの友禅染の社長さんから頼まれたのだが、我々の専門分野ではないので、そういったものが得意な専門家に力を貸してもらおうと思ったのだ。椿氏からディスプレイの専門家の大月さんを紹介され、大月さんが参加したとたん瞬く間にディスプレイの構想が固まった。やはり餅は餅屋である。大月さんにすべてお任せすることに話がまとまった。大学は便利だ。各分野の専門家たちが同じ敷地内にいるので、話しがはやい。大学の総力をあげれば政治と経済を除くほとんどのことは解決するのではないかとすら思う。この件は一件落着。
5時に映画学科に戻ると、映画美術の巨匠である木村威夫先生が待っていた。
木村さんは今年92歳になる美術監督だが、数年前から映画監督をはじめ、すでに2本の映画を監督されている。去年の夏もうち大学内でプロと学生を交えて「黄金花」という映画を監督した。世界最高齢の新人監督としてギネスブックにも登録されている。その木村さんが話があるときりだした。木村さんは日活芸術学園などいろんな学校の先生を務めているが、最近それらをすっかり若い人に引き継いだと話された。それではうちの大学で教えるのもやめて、ご自分のことに専念されたいという申し出なのかと覚悟したら、さにあらず、うちの大学だけは毎月一度はきていろんなことを話しておきたいのだが今後も通ってきてもいいかな、という申し出だった。勿論その申し出を断る理由は何もない、というか有難い。なぜ木村先生が東京のご自宅から一番遠いはずのこの学校だけ選ばれたのか僕にはわからないが、先生には若者たちに何か言い残したいことがたくさんあることは感じた。勿論お願いします、と答えると、最近は入院したりして少し気持ちが弱っていたが、またやる気がでてきたと笑われた。先生は前の「夢のまにまに」という映画で「藤本賞」の奨励賞を受賞されたり、テレビ技術者協会の「名誉賞」ももらわれたりで、そういった賞をもらったのは自分にこれからもどんどんやれという天からの励ましだと悟られたそうで、それから一変に元気をとりもどしたそうだ。病院の間は食事も少なくかなり痩せられていたが、退院後は鰻を食べたり酒を飲んだりして復活してきたと顔をビカッと輝かせた。92歳のやる気というのは凄い迫力がある。今後、木村先生がやりたいことには何でも協力すると心に誓った。先生、いつまでもお元気で。
それから銭湯にいき強い電気風呂とサウナに入って酒を抜いた。10時にバー探偵に映画監督の手塚眞くんが友達づれでやってきた。手塚眞君はあの巨匠手塚治虫の長男で、25年来の僕の親友でもある。最近はずっと金髪で、僕もいまは金髪なので、金髪どうしの再会となった。手塚君は京都で自主映画の短編を撮影しているらしく、そのスタッフと女優さんを引き去れてやってきた。いろんなことを話して2時間ほどして帰っていった。最後に、手塚君からある脚本を頼まれて即答でOKと答えた。それはまだどうなるかわからない企画らしいが、あの手塚治虫の原作ものだった。手塚治虫だったら僕は何でもやりたい。家には手塚治虫全集がズラッと並んでいるし、今でも何かつまると必ず手塚を読む。
先日、新作の映画のポスターを描いてもらった漫画家の望月三起也さんと話す機会があったが、望月さんほどの巨匠でも手塚先生は神様だと言っていたのが印象深い。僕にとっては神様以上である。まだどうなるかわからない企画はだいたい現実化しないのが常だが、現実化しなくても手塚ものはぜひ書きたい。
手塚眞君、宜しく頼みます。
12時に手塚君たちが帰り、僕も「バー探偵」をあとにした。今は家に帰ってこの日記を書いている。明日は東京で友人のカンボジア人の結婚式だ。
2009年5月30日(土曜日)
5月30日 8:30起床
ご飯と納豆と目玉焼きで食事をすます。プロットの続きを書こうと思って起きたが、東京にいく準備におわれて断念。新幹線のチケットを大学に忘れてきたので自転車で大学へ。
チケットを回収して帰宅しようと思ったら、木村威夫さんがもう来ていると学生から言われる。木村さんの授業は午後からなのだが10時にすでに来ているとは・・・映画人は凄い。事務所に行ったら木村さんが一人で座っていたので話し相手になる。木村さんは映画監督協会に入会するらしいのだが、その推薦文を僕に書いてほしいといわれた。僕なんかよりもっと偉い監督じゃないと推薦文にならないですよと断ったが、どうしても書いてほしいと言われ、僭越ながら・・・ではじまる推薦文を書いた。映画監督協会ではしばらく理事をやらせていただいていたが、ここ数年は理事もやめ協会から離れている。そんな僕が書いた推薦文には何の効力もないと思うが、木村さんはそれでもいいと言われた。92歳の大先輩の推薦文を書いてしまうのは、僕が恐れをしらない馬鹿だからできるのと、木村さんには最初の映画からの僕の恩人で、木村さんと出会わなかったらきっと僕は映画監督になっていなかったと思うからだ。だから木村さんの言うことは何でもきくようにしている。木村さんは今も元気だ。その後も次に撮りたい映画の構想を眼をキラキラ輝かせて話していた。木村さんの創作エネルギーの爆発に脱帽。
それから家に帰りスーツに着替えて妻と東京へと向かった。
4:30分に目白の椿山壮に着く。数年前にカンボジアのアンコールワットで出合ったヒア君と星和香子さんの結婚式に参列。乾杯の挨拶を務める。ヒア君と僕の出会いの物語を乾杯の前に話した。ヒア君との出会いは4年ほど前に僕がカンボジアのシェムリアップという街に行ったのが始まりだ。シェムリアップにはアンコールワット遺跡があり、まずその遺跡を一人で観光した。アンコールワット遺跡は、巨大なアンコールワット寺院だけではなく、その周辺にそれに匹敵する遺跡が200以上点在している。だから遺跡観光だけでも何日もかかる。
僕も朝から夕方まで一日中かけて遺跡を観光した。広大な土地を回るので交通手段が必要で、観光客はガイドが運転するバイクの後部座席に乗って遺跡を巡るか、トゥクトゥクというバイクの後ろに客車をつけたものに乗って巡るかの2つの方法があるが、僕は一人だったのでバイクのほうを選んだ。そのバイクタクシーの運転手件ガイドがヒア君だった。一日中一緒にいるので次第に仲よくなる。ヒア君は片言の日本語と英語ができたので、それらの言語を混ぜながらいろんなことを話した。以下の会話はそのままなされてものではなく、少しづつ一日じゅうかけて話した内容だ。
林 「君はいくつ?」
ヒア 「23才です」
林 「君の夢は何?」
ヒア 「ガイドでお金を稼いで大学に行って勉強することです」
林 「そうなの。お金を稼ぐなら一度に何人も乗せられるトゥクトゥクのほう
がいいんじゃないの」
ヒア 「そうなんです。だからまずあれを買おうと今このバイクで稼いでいます」
林 「あれはいくらとくらいするの?」
ヒア 「400ドルくらいです。だからまだまだ買えません」
カンボジアと日本の物価は50倍くらい違う。だから400ドル(約4万円)は、カンボジアでは80万円くらいの感覚になりかなり高額である。田舎の教師の年収が5万円くらいの国である。観光地ではその数倍は稼げるが、それでもガイド料は一回500円くらいなので、4万円稼ぐにはかなりかかる。ヒアはとてもまっすぐな青年でとても謙虚である。ガイドしてもらっている最中に一緒にご飯を食べようと何度も誘ったが、絶対に一緒に食べない。自分で持ってきたバナナかなんかをこっそり食べている。ガイド以外の会話は僕が聞かない限りしない。
でもいつもニコニコして、とても親切だ。僕はヒア君がすっかり気にいってしまって、観光が終わりホテルに帰った時に、その時一緒に来ていた友人たちに今日のことを話して、全員からいくらかのお金をかりて400ドルの現金をつくった。数日後の帰国の日にヒア君は僕たちを見送りにきてくれた。その時に僕はその400ドルを彼に渡し、これで3人乗りのトゥクトゥクを買って学費を稼ぐように、お金は将来君が立派になったら返してくれと言った。そのお金を彼にあげるのでは彼の尊厳を傷つけると思って貸すという形をわざととった。
その時ヒア君は泣いていた。それから一年後にまたカンボジアに行った時に、ヒア君はそのトゥクトゥクで僕を迎えにきてくれた。それに乗ってまた一日中アンコールワットを観光した。
そんな出会いがあってその後数年間はカンボジアに行く機会もなくなったが、ヒア君からは毎月ヘタな英語でメールが届いていた。文面はいつもほとんど一緒だったが、遠いカンボジアのそれもネット事情がまったく発達していない状態で送ってくれるメールには暖かいものを感じていた。そんなことが数年続いたが、このままでは僕がカンボジアに行くこともなく、もう彼とは会えないのかなと思っていたら、去年突然ヒア君から電話があった。日本に来ているという。カンボジア人が日本に来るということは相当大変なことなので驚いた。さらに驚いたのは日本の女性と結婚して日本に住むと彼が言っていることだ。今は埼玉にいるらしい。僕に会いたいので京都にいくとヒア君は言った。
京都に来たヒア君は数年前と少しも変らぬ好青年で、今回は僕がガイドとなって京都の街を観光した。観光しながら少しづつ相手の女性の話をきいた。彼女は埼玉で靴のデザインをしている女性で、アンコールワットでガイドとして知り合った。自分は女性を好きになるのは初めてだったたが、勿論そんなことを言い出せないまま最初は別れたが、それから彼女が何度もカンボジアにやってきたそうだ。そして次第に互いが好きあうようになり結婚に至ったという話だ。
ヒア君を好きになる女性なら変な女性ではないだろうと思いつつも、純真な青年を持ち遊ぶ日本のギャルもいるかもしれないので、父親のように心配になりすぐにその彼女に電話をかけた。相手の女性はとてもいい人で、本当にヒア君のことを思い、本当に好きで、彼女が全て法律的な手配もしてヒア君をカンボジアから日本によんだのだと聞いた。親族もヒア君の人柄をとても好いていて結婚には大賛成だということも。これはまるで映画のような話である。僕は彼女の話をきいてとても安心し、結婚式にはよんでください、と電話をきった。
それで結婚式によばれた。新婦の和香子さんも、お母さんも、お兄さんもとても良い人たちで、結婚式に招待されていた和香子さんの友人たちも全員でこの結婚を祝福していた。ヒア君のご両親は来られなかったので、僕がカンボジアの親族代表のような形になり、乾杯の挨拶をした。とても素晴らしい結婚式だった。
結婚式が終わり池ノ上の自宅に戻る前に、近くの飲み屋「魔人屋」によった。土曜日は店主のポコちゃんが歌うジャズライブの夜だったので、素晴らしいジャズを堪能した。途中で僕も一曲だけハーモニカを吹いて演奏に参加した。
12時まで飲んでから帰って寝た。いい一日だった。
プロットいまだすすまず、書いている時間もみつからず。
2009年5月31日(日曜日)
5月31日 9:00起床
久しぶりに東京の家で起床した。十数年すんだ家だったが、最近はほとんど帰ってないので何だか他人の家で起きた感じがした。京都に引越してから自宅は事務所で使っているがその事務所の経営状態も危機に瀕しているので、部屋を誰かに貸そうとしている。だから部屋には最小限のものしかなく、シャワーを浴びてもバスタオルもない始末。幸い借り手がみつかって来月からは他人の部屋になる。なんだか淋しくもあるが人生そんなもんでしょう。来月からは東京に行っても風呂もない地下室に泊まることになる。
起きてから慌ててこの日記を書いてメールした。プロットを書かなくてはいけないのにこの日記ばかり書いている。この仕事を落としたらそれはたぶんこの日記のせいだ。
10時に東京の家を出て新幹線で京都へ向かう。新幹線の中で弁当を食べてビールを飲む。8年ほど東京と京都を毎週通っているのに、まだ新幹線のなかで弁当を食べるのが好きだ。ビールを飲みながら弁当を食べていると何処かに旅行でもしている気になるのが楽しい。時々は音楽なんかをきいて外の風景をみながら涙したりもする。新幹線でその他にできることは眠ることだけで、原稿はまったく書けないし本もほとんど読めない。飲んで喰って寝る、新幹線のなかではこれだけを数年繰り返している。
京都に着いてタクシーで家まで帰る。タクシーは鴨川沿いを走ってもらうのが好きだ。春には桜が満開だし、夏には川のせせらぎが涼しい。都市の中心を大きな川が流れているのはとてもいい。橋に立って南北を見渡すと、どこまでもその先が続いている光景はかなり気分が癒される。たぶん僕はこのままずっと京都に住みつづけると思う。老人になってからいろんな処へ行くのは面倒だろうし、いろんな処が近くにないのも何だか淋しい。家の近くにこの川がある限り老後の人生は退屈しないように思える。老後のことなんか今まで考えたこともないが、今は空想の物語として時々考えるようになった。最初に想像していたより自分が長く生きてしまったせいかもしれない。どうせ生きるなら木村威夫さんまで生きたいなあ。
家に帰ると、30年ぶりの知人から手紙が届いていた。その女性は僕が20代のはじめのころに四谷三丁目で喫茶店をやっていたママさんで、僕はそこのバイトとして開店当初から働いていた。とても美しい女性で、何やかんやと僕たちバイトの面倒をよくみてくれたいわば恩人で、その後店を閉店し、そして僕は映画監督になってから30年以上も音信が途絶えていた。僕は当時その女性から出世払いでいいからとお金を借りていて、その後自分が出世したのかわからないまま返す機会がなく長い時間が過ぎていた。その女性の住所が最近わかったので僕の最新作「THE
CODE〜暗号〜」のチケットを手紙とともに送ったのだ。
手紙はその映画の感想と借金は時効ですという内容のものだった。借金に時効があるとは思えないが、三十年前に一緒に働いた楽しい思い出でそのお金の分は充分返してもらっていると手紙にはあった。美しい女性が書いた美しい文面の手紙だった。その美しい女性も今は75歳ですっかりシルバーシートです、と書いてあった。時間はあっという間に経つと実感した。夏までにぜひ再会しましょうという返事を美しい老女に送った。
それから大学に向かった。京都は韓国からイ・チャンドン監督が来て授業をやっているのだ。イさんは去年から時々京都にやってきて映画学科で教えている。
イさんはご存知のように「オアシス」でベネチア国際映画際の監督賞をとり、「シークレットサンシャイン」でも主演女優のチョン・ドヨンにカンヌの主演女優賞をとらせた監督だ。今回のカンヌでは審査員を務めたらしく、その審査が終わり、ノ・ムヒョン元大統領の葬儀に参列して、そのまま映画学科の授業にきてくれた。イ監督はノ・ムヒョン政権では文化観光長官
(日本の文部大臣のようなものらしい)を務めたので、ノ大統領の自殺は相当のショックだったはずだ。だから今回の授業は休講でもいいですよと連絡したが、約束どおりにわざわざ京都まで来てくれた。義理と人情に厚い監督である。
イ監督の作品に僕は大変感動した記憶があるので、最初イさんがうちの映画学科に来てくれるときいた時は嬉しいもあり、怖くもあった。どんな凄い人が来るのだろうかと構えていたが、実際のイさんはまったく権威的でない人で、とても優しい人だった。映画はかなり深刻なものを撮るが、普段はとても面白くてよく冗談を言っては笑う人柄だった。最初は夜の食事なんかを少し贅沢なところへ案内していたが、どうも居心地が悪そうなので、最後のほうは僕の自宅に招待して普通の食事をしてもらった。イさんはそれがとても嬉しかったらしく、何度も僕の家に来てマズイ食事を食べながらも、うまいうまいと優しいことを言ってくれた。本当は酒を飲めないみたいだが、我が家ではよくビールを飲んで真剣な顔でたくさん冗談を言っていた。イさんの冗談は顔がシリアスなだけに相当利く。イさんはどんな質問をしても嫌がらずに丁寧に答えてくれるので、いつもたくさんの質問をしてしまう。北朝鮮問題や、長官をしていた時の経験談や、自分の撮影の雰囲気や、次の映画の構想など、いろんなことを直接きいたがかなり確信的なことなのでここでは書かない。
イ監督のゼミがキヤンパスの中庭で行われていた。青空の下にコンピューターを運んで、それで学生たちの今までの作品を観ながら講評している姿は、あの仏陀の祇園精舎を彷彿させた。学生たちも最初は緊張していたが、次第にイ監督の人柄を理解したらしく、とても和やかな雰囲気の授業だった。
授業が終わり、イ監督と30分ほどの打ち合わせ。映画学科と韓国芸術総合学校(韓国の東京芸大のような大学)との学科交流についてだったが、ノ・ムヒョン元大統領の死でわかるように現政権のシメツケがかなり激しいらしく、ノ・ムヒョン政権下でつくられた韓国総合大学にもその火種が飛んできているようで、しばらくは様子をみてから交流を再会しようということになった。現政権が前政権を悪意をもって徹底的に打ち砕く国、韓国は本当に民主国家なのかと思った。大学間の交流は様子をみながらすすめるが、イ監督との個人的な交流は映画学科はずっと続けていくつもりです、と僕はイ監督に話した。
イさんと別れて、学生たちと近くの焼肉屋で食事した。時々学生たちとは飯を食ったり酒を飲んだりしているが、昨日の飲み会も腹を割った楽しい飲み会だった。最後のほうは学生間の恋愛相関図の話になり、僕はそういうことにはまったく興味はないが、学生たちが話しているのをきいて、結構学科内の男女がつきあっていることを知る。3年前から俳優コースをたちあげてそこはオーディションのみで学生を取っているので、そこのコースには美人が多く、やはりそれらの美人が男子学生の気をそそるらしい。つまり学生たちの恋愛事情は僕がつくったものだなと思った。学生たちは映画創りやら恋愛やらで毎日とても忙しそうだ。彼らの将来がとても楽しみだ。
それから帰宅して妻と晩飯を食べた。焼肉屋では学生のために僕と妻はほとんど焼肉を食べないようにしていたので、家に帰ってから冷し中華をつくって食べた。それから寝た。
この日記は今日が最後なので、僕の映画についても少し触れておく。新作「THE
CODE〜暗号〜」は5月9日から公開されたが、宣伝展開の弱さ、劇場関数の少なさ、そしてインフルエンザの影響もあって、僕が創った映画のなかで一番ふるわない興行成績だった。ある会社から監督を依頼をされて創った映画ではないので、その責任は全て僕にある。この映画の製作にはまる2年かかったが、その製作途中でも今までの二十数年間の監督経験を裏切るようなことが多々おこり、映画を製作すること監督することすっかり自信をなくしてしまった。映画の制作中に誰かが死んだり、興行がふるわず製作予算を回収できない事態がおきれば、監督業を廃業しようと思っていたが、その時がきたように思う。
まだ少し以前から準備している数本の映画があるので、それだけは何とか映画化して、その後はもう一度最初から出直したいと考えている。このまま監督を続けられるかどうかは甚だ疑問だが、とにかくしばらくはお詫び行脚の時間である。今回の映画制作にはある人物に多大な金銭的な迷惑をかけた。詫びても詫びられない現実だが、なぜそれがおこってしまったのかを時間をかけて考えることを続けたい。そして裏切った奴らを僕は終生許さない。これからは自らが発案して映画を創る監督ではなく、依頼監督として生きていく。僕に映画を頼む酔狂な人かいるのか、そして僕にその力があるかどうかはわからないが。とにかく僕の映画監督人生は一旦ここで幕がおりる。
老兵は死なず、只去りゆくのみ。
このような場を与えてくれたシナリオ作家協会に感謝いたします。