2010年3月16日(火曜日)
◇3月14日(日)の日記
浪費繁く、所持金6600円。明日はどうする。
歯痛あり。顔面半分鈍痛のまま茶も飲み難い。明朝早く歯科医に行くとして、医療費は後期老人保険ありで一割1000円だろう。歯科医が終わったら眼の前の循環器センターへ行かなければと思う。宿阿の心臓用の薬が切れて既に4、5日経過している。心臓治療、此処も1000円と踏んでいるが、問題はイムノファマシー(薬局)である。処方箋には糖尿病薬、血圧抑止剤、血流促進剤、コレステロール調節剤、其他7種類、薬代は幾らなのか。
問題は6600円なのだ。
午後2時か3時頃に例の如く例の喫茶店でショートケーキとコーヒーは欠かせたくない。750円かかる。――そしてパチンコ。なろうことなら――その後で競輪のノミ屋『マルイチ』へと思いが広がる。
6600円では無理だと思う。しかしと考える。痛む虫歯には勝てない。先ず歯医者だ。次にパチンコだ。順巡りを変える。3000円でパチンコが出ないとは限らない。出れば6600円にまつらう悪霊は全て飛び去る。
2010年3月17日(水曜日)
◇3月15日(月)の日記
足腰かなり弱うてきている。階段の昇降キツイ。しかし弱り目を記すのもおぞましい。明日から体調の一切を記さないと決意す。
2010年3月18日(木曜日)
猫の首を絞めて平気で殺す大沢という男が昨日死んだ。
ヤクザである。82才。
――どう自分を片付けるか、難しいよなァ。
先月頃までそう云っていた。
2010年3月19日(金曜日)
風邪気味である。
咳をしながら旅に出たい。
少しヤバイ目に会いたいらしい。
少しか。
2010年3月20日(土曜日)
或る古い映画雑誌で『雲流るる果てに』(家城巳代治監督)の作品評の記事と共に実際に特攻散華した死の前日の17-8歳の少年航空兵三人の微笑みしているスナップを見た。思わず痛泣した。彼等と私は同年代である。
『十五年戦争』(黒田清隆著)を再読した。及川古志郎大将から特攻機第一号の報告を受けた昭和天皇は、
「そんなことまでやったのか。しかしよくやった」
と云ったそうである。“しかしよくやった”と口にした言葉は重い。“しかし”が気になるのだ。語尻を捉えたくないと重い乍ら、“しかし”を抜いて、
「そんなことまでやったのか。よくやった」
と、ストレートに言ってくれた方がよかった。
天皇はずるい。戦後日本を民主化した奴らよりずるい。“しかし”に押し付けがあるのが堪らない。しかし、しかし、しかし、特攻機は次から次へと飛んだ。
肺活量不足でパイロットの適正を欠き整備分隊へ廻され特攻機に加わらなかった私は、砂地を掃く特攻機出撃を三度手を上げて見送った。飛機はたしか一式陸攻だった。少年航空兵の前日の微笑の眼が痛い。あの微笑みはそれから60年も生きて家族を作り、女をつくり、シナリオなぞ書き、金銭のある無しに気を揉み、自殺もせずにまだ生きようとしている自分の存在の滅茶苦茶さに吃驚するよりテがない。
俺も――しかし――と生きてしまった。60年以上余計に生きて死ぬ時は痛いのは嫌だと友人と語り合ったりしてるが、敵艦に激突する瞬間の恐怖と激痛の予感…、天皇も日本もそこにはない。新幹線のレールの上での轢死以上だ。
踏切を通る時、ふとレールに触りレールを掴んでみる。思い余って或る深夜私はレールの上に寝転んでみた。愚かにも戦中戦後体験を諦めていない。レールの上は平和だった。“せめて若者よ、レールの上へ寝転べ!”そう呼べば意味なき事を放言するヂヂイと一笑されるのがオチだ。しかし無意味で異常な体験こそ何かそこに新しい発見がある様に思えてならない。例えば現代と違う平和とか、思いやりとか、先ず誰か一人がレールに寝転んでみればいいのだ。
やってみろ!
思いはひろがる。春先とは云えまだ薄寒い日、暖かい喫茶店に入ってコーヒーを前に微笑の彼と語り合いたいと思ったりする。彼は82歳で私は83歳のまま。私はきっと兄貴ヅラして。
あ、もう一人現れた。レールの上に寝転んでみた24-5歳に私が声を掛けた。
「おい、コーヒーか」
「いや、紅茶にして下さい」
私たちは三人になった。
2010年3月21日(日曜日)
賃貸260万のマンションが新宿に出来た。都庁の真ん前だ。
予約が多いという。
1日、76,666円である。
何だか日本がイヤになった。イヤになったが行く処がない。
ここは日本ではないゾ、と呟きながら横浜鶴見に居座り続けるしかない。ここは好きだ。
――此街の長くあれかし
往き複り 万に及べり
本町通り